12-1-6 言葉を超えたいという衝動

言葉を超える 科学的違和感
言葉を超える

なんで、瞑想を始めたのか?
「12-2-2 科学的思考」でも少し書いたが、仏教では「言葉では真実は表現できない」と言われる。
たとえば、「空」の思想は善と悪など対立した概念を否定するような「不ニ」を理解しなければならない。言葉は物事の概念化をするため、言葉を用いると理解できないと言うのだ。それを理解する一つの方法が瞑想やヨーガだ。

これを聞くと、大袈裟に言えば、私は瞑想により「言葉による思考を捨て、瞑想によって真理に近づこう」としている、となってしまう。
(そんな大それたことは考えていなかったが)


「言葉を超えた瞑想的思考法」と「言葉を用いた論理的思考法」について、考えてみよう。

どうも、「言葉を超えた思考法」を言葉で考える。ここに違和感はあるのだが、まあ、言葉でしか考えられないので、言葉を使う。


言葉はウソだが、ウソを使わなければ真実に至れない

まず、「言葉では真実は伝えられないと主張している宗教や哲学」が他にあるか見てみると、あるある、たくさんあります。
例えば、老子も同じようなことを言っている[1]
その他にもあり、宗教、哲学の世界では、言語は真理を表さないと言うのは、そんなに不思議な考えではないようだ。

しかし、言葉でしか人に考えを伝えることはできないと言うのも正しい。
よって、仏教では、ギリギリまで言葉で考え、概念を伝える。その一つの現れとして、多くの経典が書かれている。
有名な「空」の思想の龍樹だって、「言葉を捨てろ」と言いながら、徹底的に論証する。
おかげで、難しい著書がいっぱいある。

なんか矛盾するが、
「言葉の限界を示すために、限界まで言葉を使う」
「言葉はウソだが、ウソを使わなければ真実に至れない」
という。
空海も随所で、同じようなことを言っている。たとえば、「法はもとより言なけれども、言にあらざれば顕はれず。真如は色を絶すれども、色をもってすなわち悟る。」(2024年の奈良博で『御請来目録』等の伝承として)。

仏教は、言葉では真理は捉えられないと言いつつ、言葉を使わずにそこへ行くこともできないと言う。
矛盾していると思う。

でも、仏教はこの矛盾を、矛盾のまま引き受けたようだ。
おかげで、瞑想・ヨーガを行う一方で、膨大で精緻な言語的分析(アビダルマ・中観)をやっているのだ。

ここで、疑問!
簡単に真理と言うけど。真理ってなんだろう?
(ここは、そんな難しい問題を論じる場ではないが、、、)
単純に考えると、真理にもいろいろな方向がある気がする。
仕方ない、ここではいったん次のようにしておこう。
仏教:釈迦が求めた苦の消滅に関わる実践的真理
科学:世界の現象の再現可能な記述としての真理


瞑想により真理を発見できる

仏教的真理については、少なくとも釈迦は悟った(真理を発見した)ようだ。
悟った内容には、いくつか説はあるものの、はっきりしない。
(まあ、言葉で言えないのだから、仕方ない)
少なくとも、釈迦は瞑想により、仏教的真理を悟ったのだ。
このことから、「瞑想により真理に到達する」ことは可能だと考えよう。

瞑想で悟った釈迦(イメージ、by Chat GPT)

次からは、科学的思考だ。
言葉により、論理を突き詰めて、再現可能な記述として世界を理解しようとする立場だ。
真理に到達できるのだろうか。

可能だと、今はそう思っているが、、、


[1] 『老子(道徳経)』が冒頭で、「道可道、非常道。名可名、非常名」(訳:「語ることができる道は、永遠の道ではない。名づけられる名は、永遠の名ではない」。)これは、言葉で語ることのできる道(真理)は真理ではない、と言っている。

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