「12-1-3 科学的思考・仏教的思考」で、「科学は積み重ねの学問」、「徹底的に言葉による論理を推し進める」と書いた。
日常感覚としては、こんなもんだろと思う。
でも、現代科学は、違う!
パラレルワールドや時空ワープの話ではない!
論理では言えない“真”がある
ゲーデルの不完全性定理というのがある。
(1931年にクルト・ゲーデルが発表した数学の定理)
「論理で記述された体系の中に、論理では言えない“真”が必ず残る」
「論理は万能ではない」、「論理は、自分自身を完全には語れない」
恥ずかしい話、私は知らなかった。
解説には、「この定理は、ある程度の表現力を持つ無矛盾な形式的体系には、その体系内では証明も反証もできない命題が存在することを示しています。」
解説を読んでも、何のことか、わからない。
ガーン!
「論理では言えない“真”(=真理)」とは何か?
なんだか、哲学的な話になり、このブログの範疇を越えそうで怖くなってきた。

クルト・ゲーデル肖像
これまでの科学の進歩
科学の理論が破綻した例はいくつもある。たとえば、古典力学の破綻。
「物質は波でもあり粒子でもある」、という発見は古典力学では説明不可能で、論理の破綻だ。その後、それを超える量子力学理論が提出された。
科学が、言葉(=論理)で言えるところまでを、異常なほど真剣に突き詰めた結果、シュレディンガー方程式に代表される量子力学理論(=言語)を構築した。もし、また行き詰まっても、また新たな言語(=理論)が構築できる。そのように、ニュートン以降多くの科学者は本気でそう考えてきた(進歩主義的科学観)。
しかし、ゲーデルは言う。未熟な言語(=論理)がダメということではなく、どんなに洗練された形式体系でも、それが論理的である限り必ず 言えない「真」が残ると。
ゲーデルの不完全性定理が科学的記述にも当てはまるなら、進歩主義的科学観は否定され、科学では真理に到達できない。
(ゲーデルの定理を十分理解していないので、あくまでも個人的仮定です。すいません)
さらに、論理的な記述には、「記述と世界は、原理的に一致しない」と言う問題も残る。
どんな理論言語も、対象を切り出し、変数を選び、関係を固定する。
しかし世界は、切り出される前に、すでに存在している。
論理は、切り出せるものだけを、説明しているのだ。
言い換えると、言語は「地図」、世界は「地形」であり、地図をどれだけ精密にしても、地形そのものにはならない。
さらに、さらに、ここで言う切り出し(切り分け)について、そもそも「論理」である限り、二分を避けられない。
論理は必ず、A/非A、真/偽、内部/外部 という区別を含む。
これを科学に拡張すると、量子力学的な問題がすぐに頭に浮かぶ。
観測者と観察対象の二分が生まれる。
外界にあり観測されないときは、粒子は確率として空間的に広がって存在するが、観測された途端にある場所に局在する。これを統一的に記述するためには、観測対象と観測者の「不二」が必要になる。
仏教の「不ニ」とはちょっと違うが、かなり仏教的だ。
まだ、量子力学はこの問題を解決できていないようだ!
でもきっと、科学理論は観測対象と観測者の「不二」の理論を打ち立てるだろう。
でも、その先には、さらなる「不二」の拡張理論が必要になる気がする。
なぜなら、論理である限り区別からは逃れられないからだ。
科学、その先!
ここまで考えると、いくら高度な科学的理論(=言葉)を作り出しても、全ては記述できるようにはならないような気がしてきた。
それでも科学は進歩する!
なぜなら、「最終的に全部は書けない」≠「何も書けない」ではないのだから。
真理へ半歩づつでも近づくのではないだろうか。
真理をゼロだとしよう。
1を半分にすれば、0.5になり、少しゼロに、近づく。
何度半分にしても、ゼロにはならない。けれど限りなくゼロに近づく。
そんなような感じで、科学は進むのではないだろうか。
先に述べたゲーデルの不完全性定理が科学でも正しいなら、論理(=言語)的思考では、絶対に真理には到達できない。言語であること自体の構造に埋め込まれているからだ。
科学的真理に近づくためには、論理(=言葉)以外の思考方法を手に入れなければ、ならないかもしれない。
もし、科学が瞑想を取り入れたら、事態はどうなるか予想できない。
将来、瞑想から出てきた技術で、タイムマシンができたなら、
もうひっくり返りますね!
でも、数年後には違うことを言っているかもしれないが、、、



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