諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)は、仏教の根本的な世界観だ。これらは、三法印(もしくは四法印)[1]と言われる、
- 諸行無常(しょぎょうむじょう):何事も変化し、永遠のものなど無い。「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」で、日本では有名。
これは「苦」の原因だ。物事が変化するからしんどいのではなく、変化するものを常住であると期待するから苦しいのだ。
- 諸法無我(しょほうむが):自分なんて無い。自分だと思っているのは、五蘊(ごうん)(色、受、想、行、識の5つのあつまり)[2]であり、変化するのだから、決して「我」と言う固定した実態はない。
「無我」は難しい。自分なんて無い!
仏教が生まれた頃、インドではバラモン教が流行っていて、自我(アートマン)は存在し、それは宇宙(梵)と一緒だという思想(梵我一如(ぼんがいちにょ))が支配的であった。その中で、ブッダは、無我を主張した。新興宗教の仏教としては、結構大変だったと想像する。
無我を考えるとき、デカルトが言う「我思う故に我あり」に引っかかってしまう。すべての知識を疑った彼が、すべてを疑ったとしても、「今、疑っている自分(思考している自分)」の存在だけは否定できないとした。どう考えよう。
仏教では「自己」とは固定的なものではなく、無常だと考える。仏教的観点では「我思う、ゆえに我あり」も、「思考する自分も、無常」ということか。知らんけど!
- 一切皆苦(いっさいかいく):人生全て苦しみだ。自分ではどうしようもないことばかりだ。分析すると、四苦だ。
- 生苦:生まれる苦しみ、
- 老苦:老いる苦しみ、
- 病苦:病になる苦しみ、
- 死苦:死ぬ苦しみ
さらに4つ加えて、
- 怨憎会苦(おんぞうえく):憎む相手と会う苦しみ、
- 愛別離苦(あいべつりく):愛する人と別れる苦しみ、
- 求不得苦(ぐふとっく):求めるものを得ることのできない苦しみ、
- 五取蘊苦(ごしゅうんく):自分の心や体にまつわる苦しみ
合わせて、四苦・八苦という。どこかで聞いたことがあるような、、、
確かに苦しいけれど、それほど苦しいのかなー。
毎日のことで、あんまりどうとも思わないことも多いよなー。
煩悩に汚されているからなのかなぁ〜
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう):仏教における究極の悟りの境地を示している。もとは、「消灯」や「冷却」を意味し、煩悩(貪り、怒り、愚かさなど)が完全になくなり、苦しみから解放された、静かで安らかな状態を示す。
涅槃。こんな静かな世界、刺激も全くない世界、すぐに退屈しそうな気がするが、凡人の発想だろうな〜
[1] 三宝印は、南伝仏教(テーラワーダ仏教)では「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」が基本であるが、東アジアの大乗仏教(特に日本仏教)では「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」とすることが多い。
[2] 色受想行識とは、色は物質の意味で、眼・耳・鼻・舌・身の感覚器官やその対象、眼で見えるもの、音声、臭い、味わい、触れられるもの、すなわち感覚対象だ。受は心の働きで感覚・感受作用。感受したものを心で思い浮かべる作用(表象)。行とは行おうとする意思作用。識は分別、判断、認識作用だ。
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