前のブログでは、田中公明の研究[1997、『性と死の密教』、春秋社]]をもとに、後期密教にどのように「性の理論(=セクソロジー)」が導入されてきたかを見てきた。土着宗教から母タントラの究竟次第として、「楽」つまり性快感を持続昴進させる生理学的ヨーガの手法が発展したが、それに対する宗教的意味づけを見てきた。
後期密教のもう一つの特徴として、「死の理論(=タナトロジー)」の導入を挙げることができる。このブログでは、どのようにして「死の理論」が後期密教の父タントラ系で「空」と呼ばれる生理学的ヨーガとして発展してきたかを見ていく。
1)初期仏教の生死観
またまた、初期仏教に帰ろう!
初期仏教において、死は主として肉体を構成する要素の壊死と考えられた。
一方、仏教において、輪廻転生説が重要な位置を占め、そのプロセスを教理的に説明するには、意識の身体からの分離と次の生への継承という観念が必要だ。このため『倶舎論』では、中有(=ガンダルヴァ、死者の五蘊)を導入し、これが前世の善業や悪業を引き継ぐと考えた。この中有が新たな母親の経血と父親の精液の混合物に吸着され、生命が誕生する。(何度も書いたので、飽きてきた人もいそうだ!)
意識は中有により引き継がれ、個体が生存している間は一緒にいるが、死亡時には再び分離する。ここで、「死」が登場するのだ。そして、輪廻転生では、何度も何度も生と死が繰り返される。
後期密教に入ると、受胎時に個体を形成した要素が、死亡時には受胎時とはまったく逆の過程で解体するという思想が再び注目されるようになるのである。
心身並行論「蘊・界・処」
このような流れの中で、後期密教では、物質論的あるいは心身並行論的な観念が優勢になる。すなわち、精神の複雑な活動も、身体の生理的状態の反映だとする。これにより、「蘊・界・処」の考えが成立する。(これだけでは分からないな〜)
「蘊」:身体の構成要素である色、受、想、行、識の五蘊
「界」:世界の構成要素である地、水、火、風の四大(あるいは虚空を加えた五大)
「処」:「十二処」。感覚器官である眼耳鼻舌身に意根を加えた「六根」と感覚対象である視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に意識の対象「法」を加えた「六境」を合わせたもの
父タントラ『秘密集会』系で、重視されたのは、身体の構成要素である五薀と外界を構成する五界(五大)と感覚器官とのその対象である十二処の三種のカテゴリーであり、「蘊・界・処」と通称された。
死はその解体のプロセスであり、後期密教の死の理論と密接にかかわってゆく。
2)死の過程の教理化
『集会成就法安立次第論』[1]では、人間存在をブッダの五つの智慧である「五智」と「蘊・界・処」の体系に基づいて分析した。
『秘密集会』曼荼羅において、主尊阿閦如来と、その東南西北に配される毘盧遮那、宝生、阿弥陀、不空成就の四仏は、それぞれ色蘊と大円鏡智、受蘊と平等性智、想蘊と妙観察智、行蘊と成所作智を象徴している。これら諸尊が「勝義諦(真実の世界「空」)」に入る時には、勝義の曼荼羅である身体にも、応じた変化が出現すると考えたのだ。
1)五蘊の解体では、身体・感覚・運動などに障害が起こる
2)五(五)大(界)の解体では、肉体を構成する諸要素に変調が起こる
3)十二処(六根と六境)が勝義諦に入ると、感覚器官が正常に機能しなくなり、感覚にも異常をきたす。
このように、人間の死に先だって起こる生理的変調を、『秘密集会』の曼荼羅の諸尊が空無に帰入するプロセス[2]と関連づけた。まさに、死の時が悟りを得る時であると、教理化したのだ。
ヨーガによる体験
死とは悟りを得る過程になり得ると考えたが、ではその過程で、何が見えるのか?
行者はヨーガによって仮想死を体験し、それを見ようとする。後に述べるが、後期密教の究竟次第の特徴をなす「空」とは、呼吸の制御によって仮死状態となり、そこからまた蘇生するヨーガである。
ヨーガによって体験する仮想死において、どのような体験が得られるかについては、『秘密集会タントラ』「第十八分」に書かれてある。行者はヨーガの深まりにつれて、種々のヴィジョンを観る。
①陽炎、②煙、③蛍の光、④灯明、⑤常光明(=妙光明)の「五相」だ。
これらはヨーガに熟達した徴候として出現するだけでなく、光明を見ることが成仏の因となるのだ。
3)「聖者流」究竟次第『五次第』
『秘密集会タントラ』「第十八分」には、行者がヨーガにおいてから仮想死の過程で、どのようなビジョンを見るかを書いてはいるが、どのようにすれば、このようビジョンが見えるかは示していない。「聖者流」の『五次第』(パンチャクラマ)では、仮想死を体験し、悟りを得るための手段である究竟次第を示したのだ。
その過程は、①金剛念誦次第(定寂語)次第、②心清浄(常寂心)次第、③自加持(幻身)次第、⑤楽現覚(光明)次第、⑤双入次第の五つからなる[3]。
「第二(心清浄)次第」の第五三偈以下で、『ラリタヴィスタラ』を引用する形で、ブッダガヤにおけるブッダの成道に言及しているが、その内容はむしろ『金剛頂経』に近い。すなわち、『五次第』でも『金剛頂経』と同じく、アースパーナカ・サマーディ[4]では悟りは開けず、「一切空」と呼ばれる「光明」を見ることにより、ブッダは成仏したとされる。言い換えれば、ブッダの成仏の原因は十二因縁の順観と逆観の観察でもなく、『金剛頂経』の五相成身観でもなく、「一切空」と呼ばれる「光明」であるとしたのだ!「光明」を出現させることができれば、ブッダと同様に成仏できるのだ。
これが大事だ!ともかく「光明」を見よう!

英語で「光明」はclear light と言うそうだが、
なんか天国に召される雰囲気。ちょっと違うかな〜。
実際に「光明」を現前させるには、「風」と呼ばれる生命気に基づく生理学的ヨーガを導入する。ヨーガにおいて「風」をコントロールするが、これが究意次第の根幹となる。
「四輪三脈説」と言われる生理学理論では、身体には4つのチャクラと3つの脈管があり、3つの脈管は並走していて、上端と下端および途中の四箇所で接合しているとされる。
「聖者流」では、中央脈管は中空であり、他の二つの脈管には「風」が流れると考える。このとき瑜伽行者が、特殊な技法を用いて、チャクラにおける脈管の接合箇所を緩め、「風」を中央脈管に流し込めば、死に向かって生命活動が収束し、さまざまな神秘体験が得られ、「光明」を現前させることができるという[5]。
「光明」については、「聖者流」は、ヨーガによる「五相」の⑤常光明を細かく分析している。しかし、細かすぎるので、脚注に簡単に述べるだけにした[6]。興味があれば、見てください!
ほんと、後期密教の修行方法は、書いてある経典によってバラバラの印象だ!
全部解明して、どこが違う、なぜ違う、そんな話は学者先生にお任せしよう!
死兆を予知「ポア」
後期密教では、死の瞬間こそ輪廻転生から脱出する絶好の機会と考えたが、死を解脱(成仏)の機会にするためには、あらかじめ死期を予知し、それに備えた修行をしなければならない。また時期が到来していないのに、死に至るような修行をすれば、殺生を犯したことになり、成就しないとも考えられた。そこで死の前兆として出現する不吉なサインや生理的変調をとらえ、解脱を目指して、死に備えて修行をすることが、推奨されるようになった。「ポワ」[7]はそのための典型的な修行法である[8]。
「ポア」はオーム真理教事件の時に、麻原彰晃が何回か言って、有名になった言葉だ。彼はどれだけわかってこの言葉を使っていたのだろう?

幻身を修する
繰り返しになるが、「聖者流」の究竟次第では、生命気体「風」を中央脈管に収束させ、人間の死をシミュレートするヨーガが導入され、死亡時に出現する「光明」の本質を正しくとらえれば、成仏できるとされるようになった。
ところが仏教の理論では、死はすべての終わりではなく、つぎの瞬間からは中有が始まる。このとき意識の解体に伴う三頭現が、こんどは逆向きに出現し、意識と微細な「風」からなる中有の身体が形成される。このプロセスを、生理学的ヨーガによってシミュレートするのが「幻身」であると言われる[9]。
「幻身」はよくわかっていません。わかった人がいたら、教えてください。
主に「聖者流」を中心に後期密教の究竟次第を見てきたが、もう一つの解釈流派「ジュニャーナパーダ流」にも別の解釈がある。もうそろそろお腹いっぱいなのでやめるが、興味ある方は[田中公明、1997、『性と死の密教』、春秋社]を見てください。
次は、『時輪タントラ』だ。「性の理論」と「死の理論」の統合を見よう。
コラム
「ティクレ」「微細瑜伽」:後期密教のヨーガによく「ティクレ」や「微細瑜伽」という言葉が出てくる。簡単に説明する。後期密教(無上瑜伽タントラ)では、風(ルン)・脈管(ツァ)・滴(ティクレ)から成る「微細身」が心の働きの基盤とされる。ティクレとは白滴・赤滴に代表される“光の滴”で、心が最微細に現れる中心点と位置づけられる。微細瑜伽とは、この微細身を観想しつつ、風を中脈に導き、滴を融解させることで“常光明”と呼ばれる根源的な心を顕現させる行法体系である。行者は生起次第で養った観想力と呼吸法を用い、風・滴・意識を段階的に微細化し、死の瞬間に現れる溶解過程を生きたまま再現する。この光明心の体験を基盤に幻身を生じ、最終的に光明と幻身を統合することで覚醒へ至るとされる。
[1]「秘密集会』「聖者派」のナーガブッディが『秘密集会』の曼荼羅理論を解説したテキストとされている。『秘密集会タントラ』本体はタナトロジーとの関係はあまり緊密ではなく、釈タントラや註釈書類に記載される場合が多い。
[2] 少し詳しく。曼荼羅では五仏を五蘊・五智の象徴として描き、仏であると同時に人間存在でもあるとする。そこで、諸尊が勝義諦へ帰入する運動を、五蘊が空性へ回帰する(悟りを得る)内的プロセスとして解釈する。また、後期密教では、死に伴う五蘊・五大・十二処の解体をこの象徴運動と同じであるとみなす。すると、死の過程そのものを悟りの契機となり、「死即成仏」思想が体系化される。
[3] 実際には定寂身次第を前に付加した六次第からなっている。
[4]『金剛頂経』では、悟りを得ようとして釈迦(一切義成就菩薩摩訶菩薩)は五相成身観を行う前に、アースパーナカ・サマーディ(呼吸を止めてしまうような瞑想法)を行なっていた。
[5] 生理学的ヨーガの訓練を受けていない凡人の場合においても、次の四つのケースでは、「風」が中央脈管に流入する。それは受胎の瞬間と死の瞬間、そして左右の呼気が並行する瞬間、最後は性交による絶頂の瞬間の四つである。これは神秘体験を起こすが、これによって解脱するわけではない。
[6] 「五相」の⑤常光明に❶顕明(空)、❷顕明増輝(極空)、❸顕明近得(大空)、❹光明(一切空)の四段階を設定した。そして❶~❸の三顕現(三空)が融合して生じる第四の❹光明こそ、成仏の因であると主張するようになった。識の解体に複数の段階を設定するのは、意識に、日常生活で働く表層意識「転識」と、根元的自我意識である「末那識」そして深層意識である「阿頼耶識」の三つを立てる、唯識派の心議説の影響と思われる。さらに、『行合集灯』には三顕現あるいは三空がどのようなものであるかを説いている。
[7] 「ポワ」は、死に備えて、死亡時に起こる識と「風」の遷移を、生前からシミュレートするヨーガ技法であり、ナーローの六法(①チャンダーリーの火、②幻身(キュルー)、③夢(ミラム)、④光明(サーセル)、⑤中有(パルド)、⑥ポワ・トンジュクの六種)の一つである。
[8] チベットでは、死者に代わって密教僧が行う臨終儀礼や、行者が生前から死に備えて修する行法もまた、「ポワ」と呼ばれるようになった。
[9] 幽体離脱的な発想と考えられる。知らんけど!




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