ここで改めて問いたい。
個人的で主観的な体験から、なぜ普遍的な真理に至れるのか?
仏教では、体験を通して気づくことが大切だと言う。
- 苦しみとは何か
- 無常とは何か
- 執着とはどう働くのか
これらは論理ではなく、自らの修行・体験を通して実感する。
当然、体験には個人差がある。だが、丁寧に観察を重ねることで、「個別の体験を超えて、共通する構造」が見えてくる。見ようとするものが正しければ、きっと見えてくるのだろう。
たとえば、「怒り」や「不安」という感情。
きっかけは人それぞれでも、その感情が生まれ、変化し、消えていく「プロセス」は共通している。仏教では、この共通する構造を「法」と呼び、それを見抜く力を「智慧」と呼ぶのだろう。
初めに見抜いたブッダが偉かった。
科学も、観察→共通項の発見→普遍法則の構築、という流れをとる。
仏教は、個人の主観的体験から始めつつも、そこから普遍的真理へ至ろうとする流れは同じだ。
言うなれば、「体験に基づく内なる科学」と言えるかもしれない。
主観的体験と再現性
仏教と科学のそれぞれの「再現性」について考えたい。
科学では、「誰がやっても、どこでやっても、同じ結果が得られる」ことが求められる。
たとえば、科学では、目に見えないX線や重力波を測るには、特殊な訓練や装置は必要だが、誰がやっても、同じ結果を得ることができる。だからこそ、個人的な体験や主観的な感覚は排除される。
一方、仏教では、あくまで「自ら体験し、観察し、気づくこと」が道だ。
外から測れるものではないが、正しい方法を用いれば、個々の内面において、見ようとするものが「正しい」ものであれば[1]、共通のパターンが見えてくる。
そのために、仏教は特殊な「内観技術」を長年かけて開発してきたのだろう。瞑想や修行法と呼ばれる方法論だ。瞑想の方法にもいくつもある。例えば、止観瞑想や真言宗の阿息感、阿字観、月輪観などが有名である。同時に、仏教では、独学ではなく、必ず指導者のもとで修行することが重視されてきた。勝手にやると、下手をすると、変な方向に行くこともあるらしい。
考えてみれば、科学もそうだ。
観察や実験、理論構築には、正しい技術と知識が欠かせない。指導や教育も必須だ。
最初にその知識・技術を確立した人は偉い。例えば、X線でいえば、レントゲンかな!後続は、それを学び、それを改良していく。
仏教も科学も、違う形ではあるが、「正しい技術を持って、共通の構造に至る道」を歩んでいるのかもしれない。
そのような伝統的観察法を確立した上で、「外から誰でも確認できる」ものではないが、内なる仏教真理の発見ができるのだろう。それには二つの段階があるはずだ。
第一に、一人の修行者が何度も自分の心を観察し、一定の法則性に気づくという「個人内での再現性」。
第二に、同じ修行法に従った複数の人が、似た体験や構造に気づいていくという「人と人の間の再現性」。
この二重の再現性によって、仏教は“個人の内面という主観的領域”を対象としながらも、単なる思い込みや自己満足で終わらない、一定の「実証性」を持ち得るのだろう。こうした意味での「内なる再現性」だ。
まあ、今のところ、自分では瞑想ができないが、頭で考えると「仏教に実証はある」ことになった。
瞑想しなくっちゃ!
(始めたが、難しい!)
[1] 「正しい」ものというのは、難しい。仏教では、仏陀が述べた「法」は正しいだろう。でも、立場を変えると「正しい」ものは変わる。真実と「正しい」は違うのだろう。その意味で、見えてくるものは「真実」か「正しい」ものか、、、。分からない。




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