11-5-1 死後観(1)宗教

仏教と科学

生きている人間は、誰も死んだことはない。よって、死後については分からない。

これが、正解だ。

でも、ついつい考えてしまう!気になって仕方がない。みんなそうなのだろう。
多くの本が出ているし、遠い昔から多く語られてきた。

多くの人は、子どもの頃から「天国」「地獄」といった物語を耳にしてきただろう。日本では、お盆やお彼岸に墓参りに行き、「先祖はあの世にいる」という感覚をみんな持っている。もちろん、本当は分からないこともみんな知っている。


宗教の死後世界観

宗教は死後の世界を多く語る。でも、宗教によって、そのイメージは大きく異なる。

キリスト教では、死後に天国か地獄に行くという考えが一般的だ。

イスラム教にも楽園と地獄の思想があるようだ。

ヒンズー教や仏教はこれまで述べてきたように「輪廻転生」を前提とし、生まれ変わりを繰り返すなかで解脱を目指すという世界観を持っている。

「死後」をめぐる考え方は多様だ。

仏教内部の多様な死後観

仏教の内部だけでも、時代とともに変わってきている。
仏教の中でどのように「死後」や「輪廻」が語られてきたのか、いくつかの経典や論書をベースに見ておこう。

六道輪廻(十二因縁)

初期仏教 ― 輪廻からの解脱を目指す教え

釈迦が説いた初期仏教では、「輪廻」を断ち切ることが究極の目的だ。
(これは、このブログ「初期仏教」でも書いた)

たとえば『相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)』には、死後に生まれ変わる流転の様子が語られ
「善悪の業によって行き先が変わる」

『ダンマパダ(法句経)』には、以下のように説かれる。
「この世でも来世でも、善をなす者は安楽を得る」

死後観は、生きる時の善悪の行い(業)の指針を示している感じだ!


部派仏教 ― 中有や六道

部派仏教の時代には、部派ごとの発展があるようだが、『倶舎論』が有名だ。

「中有(ちゅうう)」という考えが出される。「中有」とは死後の五蘊(自分を構成する要素:色・受・想・行・識)であり、生前の業を引き継ぐ。

六道輪廻の体系もこの頃に整えられたらしい。そこに出てくる地獄や餓鬼の描写は『長阿含経』や『雑阿含経』などに登場した。これは、悪行を戒めるようなものだ。

ここでも、生死観は、善悪を基盤としてどう生きるかを問題にしている。


大乗仏教 ― 極楽浄土と仏国土の思想

大乗仏教で、死後観は大きく変化する。「浄土思想」が出てくる。

『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経では、阿弥陀仏の極楽浄土が説かれ、死後に往生できる理想の世界、死後の希望が描かれる。

これは、釈迦が入滅して直接教えを受けれない不安、自力で悟るのは難しいという実感、また、戦争や病気などの社会的不安など、厳しい現実の中で、死後に希望を持たせようとしたようだ!

大乗仏教においては、死後の世界は単なる恐怖や罰ではなく、希望や信仰の対象として広がった。

密教 ― 中陰と即身成仏

密教での死後観はちょっと独特だ。チベット仏教に伝わる『バルドゥ・トドゥル(いわゆるチベット死者の書)』は、死後の中陰(次に生まれ変わるまでの時期、最大49日)で現れる仏や菩薩の姿、そして心のあり方が次の生を決めると説く。

また、日本では空海が説いた『即身成仏義』では「生きたこの身のまま仏となる」と説く。これは、死後にどこへ行くかよりも、「生きながらにして仏の境地に至る」こと、すなわち死後観は修行の中で超克されると言うのだ。


仏教の死後観が伝えるもの

仏教内部の死後観は、経典や論書でかなり異なるようだ。初期仏教では解脱への指針(現在の生き方といってもいいな!)を示し、部派仏教の『倶舎論』は死後になる「中有」を論じ、大乗仏教の『阿弥陀経』や『法華経』は希望的な死後観を示し、密教の『大日経』や『バルドゥ・トドゥル』は修行のなかで死を超える方法を説いた。

ちっと見方を変えると、これらは死後の世界を示しつつも、「今の生き方で未来が決まる」という倫理的な指針を述べているのだ。死後観は恐怖を煽るだけでなく、希望や修行への動機づけとして働き、場合によっては、楽しい将来を夢見て、現世を乗りきる(我慢する)手立てとしての死後感だったのかもしれない!

その後、死後世界についての科学的なアプローチが出てくる。
絶対にわからないと、みんな知っているが、科学者もやっぱり知りたいのだ!

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