12-1-4 古典ヨーガ

古典ヨーガ 仏教と科学の狭間で_2
古典ヨーガ

半年やっても、瞑想が進まない。
仕方なく、個人的に慣れ親しんだ「科学的思考」、「言語的思考」で瞑想を学び、考えてみよう。
突破口が開けるかもしれない。
(40年以上の学者として科学的思考を続けてきた歴史は重い)

言葉を捨てる思考方法を、言葉を使って学ぶ!
なんかおかしい気がするが、仕方ない。


ヨーガの起り、種類と哲学
瞑想とヨーガは密接な関係にあるが、大雑把に言って、瞑想は心を静めて内面と向き合う行為であり、ヨーガは体を動かすことを通じて瞑想状態へ導く手段とされている。この理解から、ヨーガは瞑想の一部とも考えられる。
仏教を学んだ手前、ここはヨーガに集中しよう[1]

コラム:今日流行っている「アクロバティックな対位をとるヨーガ」は、いわゆる近代ヨーガで、20世紀になって、ヨーガと西洋的な体操、軍事訓練、ボディビルなどが結びつき、強く健康な身体を作る技法として発展したものだ。
ここでは、考えないことにする。

どこにでも書いてあるが、ヨーガという語はサンスクリノト語の動詞yuj(軛(くびき)をかける、結びつける)から派生した名詞であり「統御」「結合」などを意味する。
心は牛や馬のように放っておくとどこにいくかわからない。よって、軛をかけて、心の作用を統御する。その結果、宇宙原理や悟りの智慧を体得しようとするものなのだ。

元々インドには、このようなヨーガの技法があったが、理論体系をもつことはなく、あくまで技術だ。インドおよび関係諸国の多くの宗教で実践の方法として取り入れられ、発展してきた。

そのようなヨーガには大きく2つの流れがある。「古典ヨーガ」と「ハタ・ヨーガ」だ。前者は「心の作用」をどこまでも統御し、最終的には「止滅させる」タイプのものである。後者は、10世紀以降に流行し、心の作用を止滅させるというよりはむしろ心の「作用の活性化」をめざす、精神生理学的な行法である。

彼らは人間の精神活動である「俗なるもの」を止滅させる時、「聖なるもの」が顕現すると考えた。現れた「聖なるもの」が世界を「聖化」する。あるとすれば、これがヨーガ持つ哲学だ。

書いて思った。
ーー 「俗なるもの」を止滅させ、「聖なるもの」が顕現する
これまでやってきた瞑想を続けても、こんな状態に行けるとは思えない。
瞑想はとても、「高尚」なものを狙っているのだ!

でも、仕方ない、ここまできたのだから、「論理的」に考え続けてみよう。

古典ヨーガ
まずは、古典ヨーガについて、考えよう。

仏教におけるヨーガ

仏教は、こんな思考技術をどんなふうに使ったのだろう。
初期仏教の時代、バラモン教の祭式主義と極端な苦行主義に反対であった仏陀は、菩提樹の下での瞑想(ヨーガ)により悟りを開いたと言われる。初期の仏教の瞑想法は「静慮(デイヤーナ)」とか「等至(サマーパソティ、定)」と呼ばれ、一種の古典ヨーガである。
ヒンズー教のように色々な社会的儀礼にかかわる必要のなかった仏教は、個人的な悟り(解脱)にかかわっておればよく、瞑想法(ヨーガ)の比重は大きかった。仏陀はインドにおける最高のヨーガ行者の一人なのである。

大乗仏教の時代になると、「空」の思想が仏教を支える思想的基盤となる。直接にヨーガにかかわってはいないように見えるが、ヨーガが目指すことを、別の道筋で実現しようとしているように思える。
龍樹が著した『中論』において、止滅させられるべきものはことばであった。
ことばは「俗なる」世界であり、ことばを用いるかぎり「聖なるもの」である空性は体得できない。
なぜなら、ことばは概念化を生みだす。
ヨーガ的にいうならば、心の作用がはたらいているからである。
龍樹はいう。すなわち、「空」に触れた後、世間(仮説)は「聖なるもの」としてよみがえるのだと。
まさに、ヨーガ哲学の実践である。


ヨーガの状態

古典ヨーガでは、最終的には人は自分の精神活動を止滅させると言う。
外界からの刺激をシャットダウンし、自分でなにも考えない。
どんな状態だろう。

我々は日常、刺激のなかにいる。音楽や騒音を聞き、映像や活字見て、道具にふれ、食物を味わっている。これらの刺激を人為的に、一定期間、排除すればどうなるのだろう。

実験した人がいるようだ[2]

「剌激を削減していくにつれて、大脳皮質の活性化が弱まり、意識水準が低下する。単調感が全身をおそい、情緒不安、思考の混乱・退行がくりかえされる。意欲は減退し、暗示にかかりやすくなり、知覚錯誤、さらには幻覚体険をするようになる。脳放は徐披化し、つまり、波がゆるやかになり、アルファ波の周期の延長が見られる。これらの変化は一過性だ」

外からの刺激がない、我々の五感は後退するようだ。

しかし、ヨーガ行者はそうはならない(らしい)。かつての大行者たちは、刺激のない状態でも1週間、あるいは1ヵ月でも、すみきった光の中に住み続けるという。

彼らは思考の混乱・退行などの兆しを見せない。

ヨーガ行者はこの生体そのもののなかから、外からの刺激によってではなく、感覚の自律性を完成させるのだ。


こんな話を聞くと、ヨーガ行者の瞑想は、ゾッとする状況だ。
そう簡単にできるとは思えない。
私がやろうとしている瞑想なんて、

「ちゃんちゃらおかしい!」

となる。

瞑想するヨーガ行者(イメージ、by Chat GPT)

多くの人が、いろんなところで、たとえば、街のカルチャーセンターで、色々なお寺で、高野山で瞑想を行っている。
そこでみんなが見ているものは、なんなのだろう?
通っているNHKカルチャーセンターの瞑想教室でも、受講者は
「心が晴れやかになりました」
「清々しい気持ちになりました」
「こころが洗われました」

と言っておられる。

きっと、瞑想って、色々なレベルがあるのだろう!

[1] 立川武蔵、『ヨーガの哲学』、講談社、2013

[2] 心理学者辻敬一郎(名古屋大学名誉教授)の実験、[立川武蔵、2013、p.205]

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