瞑想:瞑想で釈迦は真理を悟った。
論理:論理では言えない真理が存在する。
ここまで考えてくると、言葉では全てを語り尽くせない、
論理で真実には到達できない、
そんな気になってきた。
きっと、真面目に考えてきたせいだ 笑
言葉への執着、煩悩
私は、瞑想で、真理が分かるなら、瞑想がしたい(今のところ、できないが、、、)。
瞑想により、私が信じている科学的理論が一度壊れても、真理が知りたい(と思っているようだ)。
真理への切望は意外と強いようだ!
しかし、それでも言葉を手放さないような気がする。
これって、龍樹や空海のような
「言葉はウソだが、ウソを使わなければ真実に至れない」
と言うような高級なものではなく、
「人に伝えたい」
と言う欲望、煩悩のような気がする。
沈黙すると、みんなに思いを伝えられない。
理解できる言葉で、みんなに伝えたい。
これって、言葉への執着だ。
承認欲求、自分への執着だ。
人への伝達、コミュニケーション
釈迦は、瞑想で真理を悟った。
そして、梵天に促されるまでは、誰に伝えることなく、一人でその真理を楽しんだ(自受法楽)。
そんなのは、嫌だ。
私が嫌がっているのは、「自分だけが分かって、終わること」
だから言葉を捨てきれない。
言葉は不完全だと分かっていても、誤解を生むと分かっていても、
それでも、誰かと話して、わかり合いたい。
言葉(=論理)は私にとって、人とコミミュニケーションするための、道具だ!
科学的な言葉で、世界を理解することは、私にとって重要だ。
それ以上に、私は世界を言葉で他の人に伝えたいのだ。
この可能性がある限り、言葉を捨てることができない。
煩悩まみれ
「他の人に伝えたい」
「分かってほしい」
私が言葉で書く、原動力だろう。
仏教的に考えると、この気持ちは、明らかに、承認欲求で、煩悩だ。
「正しいことを知ったが、誰にも聞かれず、評価もされない」
こんなことに私は耐えられない。
やっぱり、私は煩悩まみれだ!
煩悩に突き動かされながら、言葉(=理論)で語っている。
そんな私が、瞑想して、煩悩から離れる日が来るのだろうか?
まず、来ないな〜〜〜!
でも、ありえない希望を持ちながら、瞑想を続けよう!
明日も、NHKカルチョチャーセンターに行こう!



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