4-2 アショーカ王と第3回結集

部派仏教

紀元前3世紀頃にはマウリヤ朝アショーカ王(在位:紀元前268〜232)の強い支持により、仏教は国家的宗教としてインド全土へ広がった。同時に、伝道使節団をスリランカ、ガンダーラ、中央アジアなどへ派遣し、仏教の国際化が始まる。

アショーカ王石柱
アショーカ王石柱

急激に拡大すると、当然のように異説・異派・異端僧が僧団に入ってきて、混乱が生じ始める。仏教がインド各地や国外にまで広がると、それぞれの地域文化や社会背景に合わせて教義解釈や実践が変化する(地域適応)。たとえば、王都パータリプトラのような都市部仏教と、辺境地域の修道僧の仏教では生活スタイルや重視点が異なり、これが部派の差異を広げる要因となったのだ。

これは、仏教だけの話ではない。ある思想、ある技術など、新たなものが急激に広まると色々な考えが入ってきて混乱を起こす。SNSの急激な拡大など、今でも同じだ。統制が必要だ。


王は僧団の統制に乗り出し、「第3結集」をパータリプトラ(華氏城、現パトナ)で実施した。主導者はモッガリプッタ・ティッサ(目犍連帝須)。正統教義の再確認と異端の排除が行なわれた。この「正統と異端の線引き」は、結果的に分裂を制度化し、部派が確立していく方向を加速したのだ。要するに、統一を目指した結集が、むしろ分裂を鮮明にした。

分裂により各部派ごとに、論書(アビダルマ)が重視され、結果として、経・律に加え、三蔵(経・律・論)の体系が完成された。各部派が僧院を中心に、教義・論理・戒律の整理を進め、例えば、上座部系『アビダンマ・ピタカ』、説一切有部(せついっさいうぶ)『発智論(ほっちろん)』などのアビダルマ論書が作られた。

教義の整備は良い面があるのは当然だ。
でも自分たちの教義に夢中で、民衆のことを全く考えなくなったようだ!

ここまでは、紀元前3〜1世紀に主流を占めた部派仏教(=小乗仏教)[1]の流れだ。


[1] 「小乗仏教」という言葉は、原始仏教から発展した修行法、あるいは主に阿羅漢(解脱者、修行完成者)の実現を目的とする流派を指す場合に使っていた。大乗仏教は衆生も一緒に乗って、解脱へ向かう大きな乗り物、小乗は自分だけが解脱に向かう小さな乗り物(自分勝手)、という意味で大乗の人が使ったらしく、侮蔑的だ。よって、現代学界では「小乗」という語はあまり使わず、より中立的な「部派仏教」や「初期仏教の諸宗派」などと表現される。

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