出航と漂着
遣唐使船団は4隻で構成されていたが、暴風に遭い、2隻が遭難。空海の乗った第一船はかろうじて現在の中国、福建省・福州付近に漂着した。当時の航海は本当に命懸けだ!
しかし、漂流により紛失したせいか正式な「国書」を持っておらず、上陸当初は入国許可が下りなかった。そりゃ、唐側からすれば、「正体不明の漂着者」であり、スパイや非正規の密入国者と疑われてもおかしくない状況だ。
そこで空海が能力を発揮する。語学が堪能で高い知識を有していた空海が書いた「請入国牒」(入国許可を求める文書)[1]が評価され、長安入りが許可される。
コメント===>当時の航海は、潮まかせ、風まかせで、事故は多かった。中国に船で渡ることは、決死の思い。漂着の末、空海の文才でやっと上陸できた!やっぱり、空海すごい!
恵果和尚との出会い
空海が遣唐使として唐に渡った目的は、「密教の本場である唐で、正統な密教を学ぶこと」。
当時の日本では密教は断片的にしか伝わっておらず、空海はその完全な体系を求め、ついに長安に入った。そこで、梵語を般若三蔵から教わったようであるが、彼は空海を密教の大家・恵果和尚(746–805)のもとに連れていく。恵果は密教の大成者・不空三蔵の弟子であり、不空を継ぐ密教の正統な法流の継承者だ。当時の唐朝における最高の密教指導者であり、長安の青龍寺に拠点を置いていた。真言八祖の一人だ。ここでは、伝持の八祖をあげておこう。
龍猛菩薩→龍智菩薩→金剛智三蔵→不空三蔵→善無畏三蔵→一行禅師→恵果阿闍梨→弘法大師

空海と唐の密教僧・恵果との運命的な出会については、伝説的なエピソードがいくつも語り継がれている。どこまで本当かはわからないが、面白い。
「待っていた」との言葉
長安到着後、般若三蔵の導きもあり、空海は青龍寺に恵果を訪ねる。
恵果は空海の到着を聞くと、
「私はずっと、お前が来るのを待っていた」
と言ったそうだ。まるで師が弟子の来訪をあらかじめ予見していたかのようだ。
「宿縁」「霊的予知」だ。これは美談ではなく、密教において「伝法」は偶然ではなく因縁によってなされるという思想と強く結びつく。
恵果は、すぐに空海の資質を見抜き、自分の後継者として見定めたようだ。空海は恵果から最先端かつ最高の密教を授けられ、わずか数カ月の間に胎蔵界と金剛界の二つの世界を完全に理解したと言われている。805年6月上旬·7月上旬·8月上旬の3回にわたって灌頂儀礼も受け、8月上旬の灌頂で「遍照金剛」の法号を授けられ、真言密教の両部(胎蔵界と金剛界)の教えを伝授する資格を得たのだ。
コメント===>すごい能力、すごい速さだ!やはり空海は天才!
恵果の死と遺託
804年の秋に入唐した空海だが、翌805年12月5日には恵果が死ぬ。
恵果は死の直前、空海に対して次のような言葉を残した。
「私はこの法を、すべてお前に託した。速やかに日本に帰り、弘めよ。」
恵果は自分の弟子たちではなく、異国から来た空海こそが「正当な後継者」であると見定めた。
コメント===>正当な後継者として空海を選ぶのはいいが、空海に日本に帰れというのはなぜですかね?中国では誰が密教を引き継ぐの?中国ではどうなってもいいのかな?今の時代みたいに、簡単に中国と日本を行き来できないよね?
[1] 『性霊集』巻五「請入国牒」原文(漢文):日本国貞元年遣使奉勅入唐。大風遭遇、漂至福建赤岸之浦。伏惟唐国、六合之内、徳侔造化、威振乾坤。臣聞、隣国之民、罔不帰仁、是以重譯朝宗、歴代不絶。臣某等、仰奉国命、遠逾重洋、以請聖教。属値波涛、偶因風飄、遂至赤岸之境。今詣官府、上聞天朝、伏願、哀愍、開恩、許通大道、令達京師、以遂本志。不任懇祈之至、謹牒。(和訳):日本国は、貞元の年より勅命を奉じて遣唐使を派遣し、唐に入国することになっております。しかし、我らは不運にも暴風に遭い、福建省の赤岸の浦に漂着いたしました。唐国は、天地を治める徳を備え、威光は天下に鳴り響いています。私は聞き及んでおります。隣国の民はみな唐の仁徳を慕い、代々途切れることなく朝貢しております。私どもは国の命を仰ぎ、遥か海を渡って聖なる教え(仏教)を学びに来た者でございます。しかし、波涛に遭い、風に流され、この赤岸の地に至った次第です。どうか、官府に伺い、天子にお伝えください。哀れみをもってご慈悲を賜り、入国を許可し、長安への道を通していただけますよう、心よりお願い申し上げます。誠に身に余る願いではございますが、謹んで申し上げます。
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