3 インド中期密教と空海密教の相違点

インド中期密教

中国や日本では、密教は国家と結びついたため、インドに比べると秘密性は薄れただろう。空海の真言密教は、インド中期密教をベースにしているのは確かだが、インド中期密教とはかなり異なる。ここでは、インド中期密教と空海の真言密教の相違について考えてみる。

(混同しているとこもありそうで、書くのが怖い!)


3-1経典

インド中期密教では、「行タントラ」と「瑜伽タントラ」に属する経典が中心だ。

行タントラ:主に除災招福、病気治癒などの現世利益を目指す経典が主となる。仏を自分の外になる存在として礼拝し、儀礼における清浄性・禁戒の遵守が強調される。『大日経』はこの分類に入る。

瑜伽タントラ:仏と修行者の「一体化」が重視され、内面の修行(心身の転換)が重視されるようになる。観想の発達と曼荼羅的世界観が顕著に現れる。代表経典は『金剛頂経』である。

これらの経典は、中国では7〜8世紀に漢訳され、空海が学んだ主要出典だ。

コメント===>チベットやインドなどでは実践方法(儀礼重視か観想重視か等)によって厳密に経典は分類されているが、日本では儀礼と観想が融合した真言宗の実践体系で包括的に扱われるので、『大日経』と『金剛頂経』をあえて、行タントラと瑜伽タントラに分類することは少ない。


3-2 曼荼羅の形成と発展

中期密教では、仏や菩薩たちが中心仏を頂点とする曼荼羅に配列される。曼荼羅は単なる図像ではなく、宇宙の構造を示したものでだ。曼荼羅は修行の「舞台」となり、観想と儀礼を通じて修行者が仏の世界に入っていく手段である。いろいろな経典に多くの曼荼羅が説かれている。

一方、日本では空海が、「胎蔵曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」の2つを重要視して、前者を慈悲の宇宙、後者を智慧の宇宙と解釈として、2つで1つ(不二)の曼荼羅として重要視した。このような考えは、インドにはない。

コメント===>インドでは2つの曼荼羅を並立させる考えはない。ではなぜ、空海は不二の曼荼羅としたのか。この考えは中国(特に不空系の密教)において形成され、その弟子である恵果和尚が空海に伝えたようだ。空海は、胎蔵曼荼羅を大日如来の内証・理法と理解し、金剛界曼荼羅を大日如来の外用・働きとし、これらを合わせて「両部曼荼羅」とし、教理と実践の双方を統合する構造だ。

コメント===>更なる疑問が!
なぜ不空は不二の曼荼羅の考えを成立させたのだろうか。唐の時代にインドから善無畏、金剛智、不空がやってきている。善無畏が『大日経』を、金剛智と不空が『金剛頂経』などを伝えた。その中で、不空は唐朝の国家儀式と密教曼荼羅・灌頂法を結びつけた儀礼体系を組織的に整えた。その際、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅を儀礼的・象徴的に併立させる構造が定着したようだ。国家儀礼と結びつけることにより、唐朝の保護・支援を得て「帝国仏教」の位置づけを確立した。その中で、漢文化要素と結びつけ、曼荼羅構造を漢風にシンクロさせた。曼荼羅・三密・灌頂を包含する総合的儀礼体系へ発展させる過程で、「両部」が統合されたようだ[1]

コメント===>不空のやり方は、空海が密教に鎮護国家としての役割を与え、国からの保護を受けたやり方にとっても似ている。空海は、宗教家として優れているが、政治との関わりにおいても一流だ。政治ができないと民衆は救えない(と思うのだけれど、、、)


まとめると、不空が「両部不二」の思想と実践体系を作り上げたのは、インド原典の翻訳・伝授に、唐代中国における国家儀礼、文化的文脈、曼荼羅象徴性の統一が重なった結果だ。単に経典を学ぶだけでなく、中国という場で「国家仏教」「儀礼仏教」として体系化する過程で、不二の構造が成立し、それが空海を通して日本へ伝わったのだ。


3-3 三密(身・口・意)と仏との一体化

インド中期密教では、修行者が仏の「身体(印契)」「言葉(真言)」「心(観想)」を模倣・実践することで、仏と一体化することが説かれる。特に瑜伽タントラでは、この三密の実践が中心であり、ただ模倣するのではなく、「仏の状態そのもの」に成りきることが目的とされた。

この修行者が仏の「身体(印契)」「言葉(真言)」「心(観想)」を模倣・実践することで、仏身と一体化する思想が、『即身成仏義』『十住心論』などにより、空海によって「即身成仏」の思想に結晶する。


3-4 導師と灌頂

インドでは、導師からの灌頂を受けることで、初めて密教の修行に入門できるとされ、灌頂は単なる儀式ではなく、仏の智慧を直接「注ぐ」行為であり、修行者が密教の世界へ生まれ変わる宗教的イニシエーションだ。これを師匠が弟子に直接教えること(師資相承)により、秘密性が保たれた。小規模で個人的実践中心の宗教運動であったためこれが比較的よく保たれた。

一方、日本では導師は単なる修行指導者ではなく、儀礼上の絶対的権威者であった。そのため個人修行の資格付与を超え、宗教的地位付与の公的儀礼として制度的な意味が重視しされた。


[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Mandala_of_the_Two_Realms?utm_source=chatgpt.com, 大塚伸夫『中国密教の形成と展開』(春秋社, 2001)

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