学友についても書いておこう。高野山大学社会人コース密教学科は、令和19年度から始まり、令和23年度まで続いた。各年度の新入生は、各学年数名程度と多くはなかった。同時に開設されていた心理学コースの学生もいたので、その倍ぐらいはいたのだろうか?その後、zoom専用の学生募集もあり、人数は急激に多くなった。脱略者もいたし、また皆社会人なので、夜の授業に来られる方もいて、全員は知らない。まあ、人数は多くない程度の印象である。
さて、その多くの方が、「なかなか」の人である。
ある授業の前の昼の休みに、同級生のTさんから、ある話を聞いた。
「人から聞いたんだけれど」
「東日本大震災の後、バス停にはいっぱい待っているんだって」
「え、何が待っているの」
「あれ、普通は見えないものです」
「あー、いわゆる幽霊ですか、、、」
「そー、津波で自分が死んだことを知らなくて、彷徨っているらしいよ」
その後、午後の授業で、M先生に
「少し質問していいですか?」
「なんですか?」
「聞いた話ですけど、仙台のバス停の前には、震災で死んだ人の霊がバスを待っていると聞いたのですが、そんなものは見えるのですか」
M先生の答えは、
「あー、そうでしょうね」
「たくさんおられると思います」
「僕は、仙台に行ってないけれど、よくそんな経験はありますよ。」
何気なく、普通のことのように言われる。周りを見渡すと、ほとんどの学生が、当たり前のことのように頷いている。全く、この手のことに疎い私は
「え〜〜」
と驚いたが、ここにいる多くの人には、何らおかしな話ではないらしい。
前に書いたが、私は“超能力”に興味があった。「もしかしたら、仏教で超能力の秘密が解明できるかも…?」
解明も何もない。みなさん、ほとんど信じているようだった。
別の授業では、N先生が、
「仏教を学び、修行を重ねると、超能力がつく。五神通[1]といい。K寺の和尚は、念ではなれた部屋の蝋燭の火をつけることができる」
心の中で思った。
「それは、物理法則に反する。それは困る。私が今まで学んできたものが根底から崩れる。」
いや、それでも何の疑いもなく、聞いている人が周りにいるようだ。この人たちにとって、物理現象、自然科学の法則って、何なんだろう。
ここにいる多くの人は「見える」らしい。人により、見えるものは異なるようだが、ともかく見える方である。
後になり、こうも聞いた。
「見える人は、ほとんど見えるとは言わないよ。だって、そんなこと言ったら、変な目で見られるだけだから、、、。」
「見える、見える、と言っている人は、まあ見えるのだけれど、まだレベル低いの!」
もともと、仏教教理は論理的で、一種の哲学のようだと考えていた私には、ちょっとショックだったが、仏教は宗教としての側面を持つ。その側面から見ると奇跡のような話はたくさんあり、それを信じて疑わない人は多くいるようだ。だって、弘法大師・空海だって、いまだに高野山・奥の院で、禅定[2]されているのだから。
というわけで、先生も生徒も含め多くの「見える」人たちと4年間を過ごすことになる。また、後に述べたいと思うが、「仏教は哲学なの、それとも宗教なの」という厄介な問題に悩まされることになるのだった。
[1] 後で知ったが、経典に書いてある。神足通:自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。天耳通:世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。他心通:他人の心の中をすべて読み取る力。宿命通:自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。天眼通:一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力
[2] 思いを静め、心を明らかにして真正の理を悟るための修行法。精神を集中し、瞑想に入り、寂静の心境に達すること(コトバンクより)。

コメント