仏教を学んで思ったことの一つ。仏教の人たちは科学、特に量子力学が好きだ!
量子力学では、日常的な感覚からはかなり外れた現象が起こる。多分その不可解さが興味を惹くのだろうと思う。例えば、トンネル効果。粒子が障壁を通り抜けて、壁の向こうに存在する。
また、量子力学では、電子は波であり、また粒子である。波動として存在確率は一義的に決まらない、観測した途端に粒子になり、ある場所に存在する。言い換えると、観測するまで物事の状態は確定しない。そのため、「シュレディンガーの猫」のようなお話が有名になるのだ。
ここでは、「絶対」について、「不確定性原理」をもとに考えてみよう!
コラム:シュレディンガーの猫
「シュレディンガーの猫」は、量子力学の不思議さを説明するために考えられたたとえ話です。箱の中に1匹の猫がいて、箱の中には放射性物質(ランダムに反応するもの)と、それに反応して毒を出す仕掛けがあります。この放射性物質が反応する確率は50%。もし反応すれば毒が出て猫は死に、反応しなければ猫は生きたままです。
でも、量子の世界では、放射性物質が「反応した」と「反応していない」状態が重なり合って存在していると考えます。ということは、その仕掛けに影響される猫も、「生きている」と「死んでいる」が同時に重なっている状態だ、というのです。もちろん、現実の世界では、箱を開けて中を見た瞬間に、どちらかの状態に決まります。この話は、「観測するまでは、現実が決まっていないかもしれない」という量子力学の不思議な特徴を現実世界の話でわかりやすく説明しています。
不確定性原理
1927年ハイゼンベルグにより、量子力学の不確定性原理が提出された。簡単にいうと、物質(粒子)の位置と運動量(速さと重さの積)を同時には、正確に決めることができない、確率としてしか表現できない、という法則だ。
少し注意する。サイコロを振る時、1〜6のどの目が出るかの確率は全て 1/6 で、どの目が出るかはやるまでわからない。この確率と不確定性原理の確率とは、本質的に違うのだ。サイコロの場合、サイコロを振る際のあらゆる情報(サイコロの正確な形や質量、転がす床の硬さや凹凸、空気の密度や温度、投げる際の速度や方向などなど)がわかっているなら、どの目が出るかは100%の確率で、予測できる、すなわち、物事は全て確定できると物理は考える(完全な縁起の法則が成り立つ)。
正確に予測できないのは、我々が持つ情報が不足しているためである。
しかし、「不確定性原理」は、原理的にものは確率でしか決まらない、絶対的な決定は、原理的にないといい出した。ちょっと、宗教的な言い方をすると、全てを知る絶対者はいないのだ!これは、宗教など、絶対者の存在を信じる分野にとっては、大変困ったことなのだ。

そんなわけで、ハイゼンベルグの「不確定性原理」に対してキリスト教は、非常に頭を悩ましたはずだ。ガリレオの時のように、「異端の強い疑い」(1633)で、裁判にかけられるというようなことはなかったが、科学と宗教の世界観の違いの中で、哲学的・神学的議論のきっかけになった。
不確定性原理のような「決定論の崩壊」は、キリスト教神学に以下のような問いを投げかけたと言われる。例えば、
「神は「偶然」すらも支配するのか?」
「世界が確率的であるならば、神の「全知全能」はどう解釈すべきか?」
「自由意志や神の摂理は、物理法則とどう関係するのか?」
その中で、「神の自由」と「人間の限界」に注目し、量子論が人間中心の認識の限界を示すものと肯定的な評価が神学から出た。
一方、科学者側では、あの有名なアインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言って確率的世界観を嫌い、決定論を擁護したのは有名だ。科学からの反対意見だ。
現在では、不確定性原理は「世界が完全には予測不能であること」を示すものとして、自由意志の存在や神の介入の可能性といった神学的テーマと結びつけて語られることも多いらしい。たとえば、神は「量子的ゆらぎ」を通して介入しうる、と考える神学者もいる。また、決定論が崩れたことで、自然法則と神の計画が矛盾しないと捉える立場もあるようだ。まあ、考え方はいくらでもあるようだ、、、
ただ、不確定性原理が目に見えてくるのは、現実世界のスケールの話ではない。少しだけ、コラムで定量的に不確定性原理を書いてみると、(面倒なら、読み飛ばしてね)
コラム:不確定性原理
不確定性原理を式で書くと
ΔxΔp≧ħ/2
ここで、Δxは位置の不確定性、Δpは運動量(速さと重さの積)の不確定性、ħはプランク定数hを2πで割ったものだ。ただし、h=6.62607015×10-34 m2 kg/sであり、無茶苦茶小さい。例えば、野球ボール(145g)の速度の誤差が時速±1 kmだとする。160kmの投手の球だと1%以下だ。この時、位置の不確かさはΔx = 1.30×10−33mとなる。この不確かさは、原始の大きさ(約 10−10m)よりも極端に小さいのだ。例えるなら、地球全体を1ミリの点に圧縮したとしても、野球ボールの不確かさは兆分の兆分の兆分の兆分の1ミリ以下くらいの小ささなのだ。つまり、現実世界では完全に無視してよい不確かさだ。よって、バッターが不確定性原理のせいで、空振りすることは絶対ない!とはいえ、ものごとが原理的に、確率的にしか決まらないということのインパクトは大きい!
「不確定性原理」をもとに、私たちの人生も予測不能で不確定だ、との意見も出てくる。どんなに計画しても、突然の病気、出会い、別れ――未来はあらかじめ決められていませんと考える。これは、ちょっと言い過ぎだ。「突然の病気、出会い、別れ」は不確定性原理のせいではない!
まあ、ポジティブに考えれば、「選ぶ」自由があり、「信じる」力が生まれると言えるのだろう。科学が「見えるもの」を探り、宗教が「見えないもの」を語る。それならば、科学は「不確定」と言うが、宗教はそれを「希望」と捉え、この世界を「コントロールできないけれど、信じて歩んでいく」と考えればいいのかもしれない。
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