11-2-1 仏教に実証はあるのか

仏教と科学の狭間で

仏教を学んでいて、いつも思っていた。
「なんて論理的な宗教だろう!」
例えば、部派仏教のアビダルマ(論)では、心の動きを細かく分析し、精緻な理論を組み上げている。あまりに細かすぎて、時に「そこまでやるか!」と思ってしまう。

反面、いつも思っていた。
「科学では、どれだけ立派な理論を立てても、実験で確かめられなければ却下される」
「じゃあ、仏教は?実証なしで信じているだけなのか?」

科学では、理論が正しいかどうかを、実験や観察で検証しなければならない。他者による再現性も求められる。反証可能性も大事だ。これが科学における「客観的実証」というやつだ。

たとえば、アインシュタインの「一般相対性理論」。
彼は1921年にノーベル賞を受賞しているが、その受賞理由は相対性理論ではなく「光電効果」だった。選考委員会は、「相対性理論」が当時はまだ十分に実証されていないと判断したのだ。実際、相対性理論が実験的に裏付けられたのは、1919年の皆既日食時の星の観測実験がきっかけだった。その後も何度も再検証され、今に至る。

――これが、科学における「実証」の流れである。


仏教の実証

仏教を学び始めた最初の頃は、「仏教教理に実証なんて、ないだろう」と思っていた。そのような発言もした。
だが、学びを進めるうちに、こう考えるようになった。
「もしかして、再現可能な“内的体験”があるのかも?」

具体的には、心の動きを観察し、心の動き(たとえば貪・瞋・痴)がどのように生まれ、どのように消えていくかを、内側から観察する。そして、それを整理し、共通項を抜き出していく。そのような過程で、心が見えてくるようになるかもしれない。
他の人も、同じ手順を踏めば、同じような境地に到達できるのかもしれない。

少し仏教における「仮説」と「検証」の流れを整理してみよう。

仮説(科学でいう仮説と同じ):
例えば、「自己というものは実体として存在しない」

実践(科学でいう実験):
心の内的観察を行う

検証(科学でいう実験結果):
「なるほど、自我とは錯覚だった」と主観的に発見する

共有(科学でいう再現性):
何度やっても、同じもの(例えば、「無我」)が見える

ただし注意が必要だ。科学のように誰でも測定器で確認できるわけではない。
この時点では、仏教における「実証」とは、「個人体験による内的検証」と感じる。


そうだ、心の中でしか見えないものだから、
「本当に再現できているのか?」
「見える人にしか見えない“信仰”なのではないか?」
そんな疑問も、正直、まだ残っている。

この仏教的アプローチは、「客観的科学」とは明らかに違う。
でも、単なる「信仰」、すなわち、見える人だけに見えるものとも、違う気がする!
もう少し、詰めていこう。

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