3-1 釈迦の一生(1) ー 出家と悟り

初期仏教

釈迦は生身の肉体を持った実在の人物だ。その出生や生い立ち、悟りを開くまでの過程はほぼ事実に近いようだ。
一方、釈迦は仏教の開祖で偉い人だ。宗教的な観点から、伝説・神話的・奇跡的と考えられる部分も多い。生まれてすぐ七歩いたとか、空を飛ぶ、瞬間移動する、未来・過去を見る、他人の心を読むなどの神通力の話などだ。グレーゾーンもありそうだ。

まあ、古い話だし、事実にばかりこだわる必要もないような気がする。みんなひっくるめて釈迦の一生と考えよう!

1 釈迦の出家

仏教を開いた釈迦について書いておこう。これはどの仏教入門書にも書いてあるが、やはり書こう。
彼は実在の人物であり、釈迦族の王子として紀元前5〜6世紀に生まれる。
伝承として一般的には、紀元前463年(別説で紀元前383年もある)の4月8日に生まれたといわれている。俗名をゴータマ・シッダールタ。父は浄飯王(じょうぼんおう、Śuddhodana)、母は摩耶(マーヤ、Māyā)である。何不自由なく暮らし、結婚して子供も儲けている。


ある時、王子は城外に出て街の人々の暮らしを見た。そこには、生まれ、年老いている人、病気の人、そして死ぬ人もいた。これを見た釈迦は、これは大変だと感じたそうだ。すなわち、「生老病死」は「苦」であると思った。ここでいう「苦」とは「自分ではどうしようもないこと」と理解するのが、一般的であるようだが、ともかく、釈迦は悩みに悩んで、29歳の時に妻も子供も捨てて、出家してしまう!

街で老人、病人、死人を見て、「苦」(自分ではどうしようもないこと)だと感じる。老人、病人、死人はどこにでもいる。何で、急に「苦」だと感じたのか。街に出るまでは会ったこともなかったのか。
王子として何不自由なく暮らしていたので、老人、病人、死人などは、周りが見せなかったのか、、、

突然の出家。これって、今の常識からすると、「妻子いるのに、自分のことだけ考えて、身勝手じゃない。非難轟々だよ!」となるような気がする。でも、ここで釈迦が妻子を捨てて、出家しなかったら、仏教は生まれてこなかった。
「英雄の非合理は許される!」
まあ、それに価値観て、時代によって大きく変化するしね〜。


出家した釈迦は、5人の仲間と苦行を重ね、悟りを開こうとする。どんな苦しい修行だったのかを示すような銅像がある。窪んだ目、体は骨と皮だけである。とっても頑張っていたのはよく分かる。しかしそれでも、悟りは開けない。とっても困ったと思う。

苦行の仏陀

大変な苦行である。それに徹するには、覚悟と精神力と社会的な生産活動の放棄が必要となる。自分自身の食い扶持すら捻出することはできないだろう。修行者といえども、生きていくなら最低限の食事は必要となる。森で草木や木の実を得るか、みんなにすがって生きていくしかない。
社会で生きていくなら、健全な肉体を持っているのなら、今の常識で言えば、こんなのクソ野郎だ!自分で働け!となるだろう。
でも、聖職者とはそういうものなのだ!
ここまでの修行をすれば、みんなの尊敬を集める。
なんであれ、限界を越えることをすると、尊敬されるようだ!
この「尊敬」て、なんだろう?


釈迦の悟り

金剛座

苦行の末、釈迦はひらめく。

「こんな苦行ばかりしていても悟りは開けない」

中道が必要だ」

修行でボロボロになった身体を清めるためナイランジャナー川で沐浴をする。
その時、やつれ果てた釈迦にむら娘スジャータが乳粥を差し出す。釈迦は体力を回復し、新たなステージに赴く。近隣の森の大きな菩提樹の下で瞑想し、遂に悟りを得るが、その過程では、色々あったようだ。

有名なのは「降魔(ごうま)」。瞑想する釈迦に色々な悪魔がやってきて、彼をそそのかす。悪魔とは多くの煩悩だ。彼はこれを振り切り、悟る。それは、現在のブッダガヤにある金剛座(写真)で、旧暦の12月8日と言われている。


これもよく書かれていることだが、仏陀(=ブッダ)とは目覚めた人という意味である。サンスクリット語の動詞語根√budh(目覚める)から作られた過去受動分詞buddhaを漢字で音写(発音を漢字に直す)した言葉だ。これ以降は、悟りを開いた釈迦を、ブッダ(もしくは、仏陀)と呼ぶことにしよう。

ついに悟りを開いたブッダであるが、
「私が得た悟りは、難しくて、説明しても他の人には分からない」
と思って、自分だけで「悟り」を楽しんだ。これを「自受法楽(じじゅほうらく)」と言う。
ここで終わっていたら、仏教は生まれなかった。

もともと釈迦は、自分が「苦」から逃れたいと思っていたから、何も他人に悟りを広める必要はない。
でも、少々身勝手なような気もする。

ここに梵天(ぼんてん)が出てくる。梵天はブラフマーと言って、ヒンズー教のえらい神様で、宇宙創造を司る。このヒンズー教の偉い神様が、みんな(衆生(しゅじょう)[1])のために、あなたが悟った真理を説いてくれるようにブッダを説得する。2回ほど拒否したのだが、3回目には引き受ける。この梵天のお願いを「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」と言う。

ちょっと考えると、これっておかしな話のような気がする。他宗教であるなら、信者が仏教に取られて、減ってしまうかもしれない。きっとこれは、「他宗の神様が認めるほど素晴らしい教えなのだ」という、後からできた仏教の「権威付け」のような気がするが、真偽はもちろん不明だ。


梵天勧請の後、ブッダはいろいろと教えを説く。
さあ、続けよう!

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