2 ブッダの教え

初期仏教

釈迦は説法を始め、80歳で入滅するまで、色々なところで、色々な人に仏教の教えを説く。

ブッダが説法をするとき、聞く人の仏教的素質に合わせて説法をする。対機説法という。有名な話に、以下のようなものがある。息子を亡くして悲嘆に暮れていた母親は、ブッダになんとかして息子を生き返らせてくれと懇願する。するとブッダは「よろしい、これまで誰も死んだ人のいない家にいき、ケシの実をもらって来なさい。そうすれば、生き返らせてあげよう」。母親は村中を回りますが、誰も死んだ人のいない家などあるわけはない。そこで、母親は、人は死ぬことを悟るのだ。


ブッダの教え、すなわち仏教の基本的教えを述べておこう。

実は、仏教の教えは、どんどん進化している。いや、変化している。改造されている。もちろん、敬虔な仏教信者は、すべてブッダの教えだと信じている(はず)。

あるフランスの仏教学者[1]

ヨーロッパ人の目には、仏教は「アラカルト宗教」すなわち一人一人が各自メニューから嫌いなアイテムは避けて、好きなものだけを選ぶことができる宗教の理想的モデルのように映る。

と書き始める。要するに、仏教は多様であり、多くの矛盾する要素が含まれているが、その好きなところだけ選べばいいと言いたいのであろう。約2500年の仏教の歴史を眺めると、確かに色々な相がある。矛盾したように見えるものも多い。これは、いいように考えるべきだ。仏教は考える宗教なのだ。絶対者が「こうだ」といったことをそのまま信じることはしないのだ。考えて考えて考えて、真理に近づこうとする宗教なのだ。

仏教教理の変遷、多様性などについては、後に述べるとして、まずは初期仏教おけるほぼブッダが説いたと言われる教えについて述べよう。


1 四諦八正道中道

ブッダの最初の説法「初転法輪」では、5人の比丘に四諦四聖諦)、八正道中道を説いたとされる。四諦とは、4つの真実という意味で、苦諦、集諦、滅諦、道諦。ブッダが説いたのは「苦の真実」とその克服方法だ。すなわち、

  • 苦諦:人生には「生・老・病・死」など自分では、どうしようもないことがあり、これは苦しみだ。
  • 集諦:苦しみの原因は欲望や執着という煩悩だ。もっと言うと、三毒(貪欲・怒り・無知)[2]だ。
  • 滅諦:煩悩を断ち切れば、悟って涅槃に行ける。
  • 道諦:悟りに至りには正しい道筋である。八正道の実践だ。

八正道とは

正見:正しいものの見方
正思:正しい考え
正語:正しい言葉
正業:正しい行い
正命:正しい生活
正精進:正しい努力
正念:正しい気づき正定:正しい瞑想

これらは三学という大きな区分にも整理できる。

戒:道徳的な生活を守ること
定:心を落ち着け集中すること
慧:真理を悟る智慧を得ること

仏教では、生きているすべてのことが「苦」であり、人生は全て苦しみ(自分でどうしようもないこと)と考えるのだ。

コメント===>どこの本にもこれと同じようなことが書かれているが、どうも漢字の熟語だけを見ても、意味がわからない、難しい。日本には漢訳教典(インドの言葉(サンスクリット語)を漢文に訳したお経)が入って来ている。漢字を知っている我々は、なんとなくわかった気になる。これが曲者。実際は、我々が知っている漢字の意味と異なることも多い!私は、多くの誤解をした。むしろ英語の方が、日常的な言葉で訳されているので、分かりやすい場合も多い!

コメント===>さらに、お経は、偈頌[3]で書かれることが多く、意味が分かりにくい。それで多くの注釈書が書かれる。例えば、『大日経』の注釈書は『大日経疏』。さらに、注釈書の注釈書もある。おかげで、異なる解釈が出てくることも多い。経典の間で、書かれていることが異なる場合も多い。経典、なかなかの曲者である。

初転法輪以降、いろいろなことがブッダによって、説かれる。独断的に重要と思えるものを挙げていこう。

2 大事なブッダの教え

三法印もしくは四法印[4]と言われる、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、(+涅槃寂静)だ。仏教の根本的な世界観で、とても重要なものだ。

  • 諸行無常:何事も変化し、永遠のものなど無い。「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」で、日本では有名。

コメント===>これは「苦」の原因だ。物事が変化するからしんどいのではなく、変化するものを常住であると期待するから苦しいのだ。

  • 諸法無我:自分なんて無い。自分だと思っているのは、五蘊(色、受、想、行、識の5つのあつまり)[5]であり、変化するのだから、決して「我」と言う固定した実態はない。

コメント===>「無我」は難しい。自分なんて無い!でも、仏教が生まれた頃、インドではバラモン教が流行っていて、自我(アートマン)は存在し、それは宇宙(梵)と一緒だという思想(梵我一如)が支配的。その中で、ブッダは、無我を主張した。新興宗教の仏教としては、結構大変だったと想像する。

コメント===>無我を考えるとき、デカルトが言う「我思う故に我あり」に引っかかってしまう。すべての知識を疑った彼が、すべてを疑ったとしても、「今、疑っている自分(思考している自分)」の存在だけは否定できないとした。どう考えよう。

仏教では「自己」とは固定的なものではなく、無常でだと考える。仏教的観点では「我思う、ゆえに我あり」も、「思考する自分も、無常」ということか。知らんけど!

  • 一切皆苦:人生全て苦しみだ。自分ではどうしようもないことばかりだ。分析すると、
  • 生苦:生まれる苦しみ、
  • 老苦:老いる苦しみ、
  • 病苦:病になる苦しみ、
  • 死苦:死ぬ苦しみ

さらに4つ加えて、

  • 怨憎会苦:憎む相手と会う苦しみ、
  • 愛別離苦:愛する人と別れる苦しみ、
  • 求不得苦:求めるものを得ることのできない苦しみ、
  • 五取蘊苦:自分の心や体にまつわる苦しみ

合わせて、四苦八苦という。

コメント===>確かに苦しいけれど、それほど苦しいのかなー。毎日のことで、あんまりどうとも思わないことも多いよなー。煩悩に汚されているからなのかなぁ〜


3 さらに大事なブッダの教え 縁起、輪廻転生

他にもいっぱい重要な教えはある。それらのいくつかを独断的に選んで、書いておこう。まずは、縁起だ。これは無茶苦茶重要だ。

  • 縁起:物事はすべて原因と結果で成り立っている、という考えだ。そんなにも難しくないようにも思われるが、この考えは、のちに有名な「空」の思想として発展していく。D先生は、この因果関係を2つの原因(因と縁)に分けて教えてくれる。子供が産まれるという結果の原因を考える。直接的な原因(印)として、両親が必要だ。ただ、両親がいるだけでは、子供は生まれない。この二人が結びつく必要という間接的な原因(縁)が必要だというのだ。2つ合わせて、因縁という。

さらに、輪廻転生がある。人間だけでなく、生き物は何度も何度も生まれ変わるという考え方だ。釈迦は、人生が「苦」であると考えていたので、輪廻することは「苦」が続くことなのだ。

  • 輪廻転生:仏教というわけではないが、インドには輪廻という考えが昔から根付いている。人間に限らず、生物が死ねば、また生まれわかるというものだ。その考えは、ヴェーダ時代に遡る。生物は、死後、生前の行い(=業)の結果によって、多様な生存となって生まれ変わるのだ。輪廻からの開放は、解脱とか涅槃とか言われる。仏教では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見る、二度と再生を繰り返すことのない輪廻から抜け出すことを最高の理想とする。
  • 六道輪廻:生まれ変わる状態に6つあるとされ、六道とか六趣と言われる(六道輪廻)。六道には、天道(神さんの世界)、人道(人間の世界)、修羅道(阿修羅の世界)、畜生道(動物の世界)、餓鬼道(餓鬼の世界)、地獄道(地獄の世界)があり、後ろの3つは苦しみが多く、悪い状態だ。死んだ後、どこの道に行くかは、生前の行いつまり業により決まるのだ。悪い行い(悪業)を積めば、次の生では、畜生になったり、餓鬼になったり、最悪は地獄に落ちることになるのだ。
六道輪廻の図


十二縁起:仏教の根本教義である縁起を、具体的なプロセスとして説明したものである。仏教では人生は一切皆苦であり、この苦しみの原因を知ることが悟りへの第一歩となる。十二縁起では、苦しみの根本原因は「無明」であり、そこから始まる因果が連鎖し苦しみが生じるプロセスを説明する。同時に、十二縁起は、単なる「人生のプロセス」ではなく、「輪廻のメカニズム」と「苦しみの因果関係」を示している。逆に言えば、「この因果の鎖を断ち切れば、苦しみから解放される(涅槃に至る)」という道筋を示すことになる。「無明をなくせば、苦しみの連鎖は止まる」という点が重要であり、これは「八正道・三学によって無明を克服し、悟りに至る」という実践と結びつく。

コラム:十二縁起
具体的には、十二縁起とは、無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死の支からなる人間の苦の発生の因果法則を説く。各要素の意味を説明すると、
①無明(無知):真理(四諦・縁起)を知らないこと、
②行(形成作用):過去の業(カルマ)を生み出す意志的な行為、
③識(認識作用):六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)による認識作用、
④名色(心身):精神(名)と肉体(色)の働き(個体としての「私」の形成)、
⑤六処(六つの感覚器官):六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)
⑥触(接触):外部の対象と六根が接触することで、感覚が生じる、
⑦受(感受):「楽・苦・不苦不楽」の感覚が生まれる。ここで「快を求め、苦を避ける」執着が生じる。
⑧愛(渇愛):欲望・執着、
⑨ 取(執取):愛が強まり、執着する、
⑩有(存在):執着により「業(カルマ)」が作られ、未来の生存が決まる、
⑪ 生(誕生):新たな生が生まれる(転生)、
⑫ 老死(老いと死):生まれたものは必ず老い、やがて死ぬ。(これだけ聞いても、何も分からん。)

この十二縁起は、次のように解釈されている。
三世両重の因果」という説では、①無明と②行を過去世における「因」とし、③識、④名色、⑤六処、⑥触、⑦受を現世の「果」とする。さらに、⑧愛、⑨取、⑩有を現世の「因」とし、⑪ 生、⑫ 老死を未来世の「果」、すなわち、過去、現在、未来の三世にわたり2つの因果関係があると解釈する。

他の解釈もある。大乗仏教の時代に龍樹は十二支が煩悩・業・苦の3つに分類できるとし(『因縁心論』)、
<煩悩>は①無明と⑧愛、⑨取、
<業>は②行と⑩有、
<苦>は③識、④名色、⑤六処、⑥触、⑦受と⑪ 生、⑫ 老死
これにより<煩悩>→<業>→<苦>の連鎖が続く[6]。人が死を迎えて、一生を終わっても、その生涯で<煩悩>より生じた<業>により、次の人生に向けて輪廻し続ける。この輪廻の連鎖から抜け出すためには、この連鎖を断ち切ることが不可欠になる。


コメント===>このように仏教では、輪廻転生を受け入れる。不思議なのは、仏教では無我を説き、永遠不滅の自己を認めない。でも、輪廻して、生まれ変わったとき生前の業(カルマ)を受け継ぐ。前世の業で次の世界が決まるなら、なんらかの形で前世の記憶(記録、業)を引き継ぐ必要があるはず。霊魂のようなものが残るのだろうか?『倶舎論』[7]では、衆生は死ぬと「中有」と呼ばれる状態に入るとする。そこで煩悩に塗れた色受想行識からなる五蘊には実態はないが、前世の五蘊が転移したもので、解脱しないかぎり、識の連鎖によりつぎの生に引き継がれると解釈したのだ。後に唯識学派ではすべての業が種子として蓄えられる心の貯蔵庫のようなもの(阿頼耶識)を設定し、それが業を引き継ぐと考えた。教理の整合性を保つため、なかなか苦労したようだ!


[1] ジャン=ノエル・ロベール、今枝由郎訳、『仏教の歴史―いかにして世界仏教になったか』、2023、講談社

[2] 三毒として、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)という。

[3] 仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文(詩)の形式で述べたもの。

[4] 三宝印は、南伝仏教(テーラワーダ仏教)では「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」が基本であるが、東アジアの大乗仏教(特に日本仏教)では「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」とすることが多い。

[5] 色受想行識とは、色は物質の意味で、眼・耳・鼻・舌・身の感覚器官やその対象、眼で見えるもの、音声、臭い、味わい、触れられるもの、すなわち感覚対象だ。受は心の働きで感覚・感受作用。感受したものを心で思い浮かべる作用(表象)。行とは行おうとする意思作用。識は分別、判断、認識作用だ。

[6] 以下の2つの連鎖が考えられる。I] ①無明→②行→③識、④名色、⑤六処、⑥触、⑦受、II] ⑧愛、⑨取→⑩有→⑪生、⑫老死

[7] 「世間品」(T No29)(第十一巻)

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