仏教は、ブッダの死後、その教理をどんどん進めていく。変化させていく。ブッダの考えや思想を整理し、哲学的にその考えを精緻なものにし、さらに最大の目的である「悟り」を得る道筋や修行儀礼を進化させていく。でも、一応、大筋の考え方は、ブッダにより出されている。ここでは、ブッダの考えの「階層性」も考慮しながら、ブッダがどのように考えたかをシミュレートしてみよう。
ブッダは考えた。根本は一切皆苦だ。この人生は苦だ!老いも死も、物を欲しがることだって(四苦八苦)、自分ではどうしようもない「苦」だ。この苦しみから抜け出したい。
それならば、
「死んでしまえばいい」
と考えた。
でもすぐに思い直す。
「いやいや、そうはいかない。輪廻転生で未来永劫「苦」の人生は続く」
「そうだ、輪廻から抜け出さなければ」
「どうしたらいいのだ」
「考えよう!」
「考える」、これがブッダの基本姿勢だ!
考えるといっても、机に座って考えるわけではない。自分を追い込んで、瞑想をし、真理に辿り着くのだ。
コメント===>仏教において、真理に到達するには、通常の言語的思考では無理で、瞑想・観想が必要なのだ。これは仏教において、重要な問題で、後でじっくり考えよう。
コメント===>どんなプロセスを辿ったかは、私たち凡人にはわからないが、とりあえずブッダは真理を発見し、「悟った」。何を悟ったのかは、実際のところ誰も分からない。
考えて、考えて、ブッダは、世の中はすべて「縁起」で成り立っていることに気づく。
何事も原因と結果だ。原因が変われば、結果が変わる。すべてのものがそれぞれ相互依存している。一つのものだけで、すべて決まるわけではない!
縁起の法則が成り立ち、条件が変わると、結果は変わるのだから、どんなものだって移り変わる。諸行無常だ!
青々と繁った草木だって、水がなくなれば枯れてしまう。天下を極めた人だって、社会情勢が変われば、落ちぶれる。そう、盛者必衰のことわりだ。
縁起をもとに、諸行無常の前提に立てば、五蘊(色、受、想、行、識)でできている自分だって、いつかは無くなる。
「自分なんてない!諸法無我だ!」
「何も実態なんてないのだ。無いものをあると考えて、執着している。我々は煩悩に侵されて、執着している」
「それで、業(=カルマ)を積むのだ」
今世の悪業・善業を抱えて、来世に輪廻転生していく。場合によっては、状況は悪化する(六道輪廻)。地獄に落ちることだってあるのだ。まだまだ「苦」は続く!
「この流れを断ち切らねば」
ブッダは、輪廻転生のプロセスを、縁起の法則をベースに一生懸命考えた。
苦しみ(苦諦)がどのようにして生まれるのか、輪廻の仕組みを明らかにしたい、苦しみが発生するメカニズムを明らかにしたい。
考え抜いた結果、「無明」から始まる十二縁起(十二因縁)の法を導き出した!
「「無明(=無知)」から始まり、煩悩がすべての「苦」の根源だ!(集諦)」
「煩悩を滅断ち切らねば!(滅諦)」
「そのためには正しい行い(八正道・三学)の実践だ!(道諦)」
「そうすれば、煩悩を断ち切り、輪廻から離れられる!(涅槃寂静)」
これが、四諦だ。
ブッダが本当にどのように考えたかは分からない。でも、残されたブッダの教えを紐解くと上のように思える。これが、ブッダの悟りの過程だ。
ほぼここで、仏教教理が出来上がっているように思える。
でも、、、
他の人を救わなくてよいのだろうか。
誰にでも煩悩を断ち切れのだろうか。
煩悩を断ち切るより良い方法はないのか。
多くの問題を抱えながら、仏教は進んでいく!
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