部派仏教の教理体系は、各派による差異はあるが、大雑把には、初期仏教と変わらない。
三法印、四諦と八正道、三学、縁起(因果律)などの教義はそのまま引き継がれ、解脱への実践も八正道や三学などで、あまり変わらない。
コメント===>皮肉っぽく言うと、細部へのこだわりに終始したのだ。学者をやっていると、時には耳がいたい。時にはやってしまう。あとで考えると、どうでもいいことへのこだわりだったりするが、渦中にいる時はわからない。部派のこだわりが、「どでもいいこと」なのかどうかは知らないが、、、
出家者中心であり、個人的な悟り(解脱)を目指す。ただ、ブッダは真理を発見した特別な人で、ブッダにはなれない。せいぜい修行を完成しても阿羅漢[1]とまりと考えた。

教義は論書(アビダルマ)の整備では非常に細かく体系化され、そのため仏教の理解・学習には専門的な知識が要求され、実践も出家修行(托鉢・戒律遵守・瞑想)に重点が置かれた。そのため、一般庶民からは遠い存在になっていった。
コメント===>部派仏教の展開は、間違いなく仏教思想の洗練と体系化を推進した。
しかし、
「これでいいのか?」
そもそも仏教は、すべての人を救う教えだったのではないか?
なぜ今、仏教は出家者だけのものになってしまったのか?
民衆に開かれた仏教の道は、もう閉ざされたのか?
民衆を忘れてはいけない。
誰のための仏教だ!
そろそろ、大乗仏教の出番となる!
[1] 阿羅漢はブッダと同義語であった。しかし部派仏教では、いつしか阿羅漢ということばはブッダと区別された限定的な意味に用いられるようになった。部派仏教の人々にとって目標は阿羅漢であり、成仏(ブッダになること)をめざすことは不遜であった。部派の有部論書ではブッダの偉大さが強調され、菩薩のたどるブッダへの道はきわめて特別なものであって、凡夫が煩悩を断ちきって阿羅漢になる道とは隔絶しているとされた。
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