コメント===>空海の生まれや育ちについては、たくさん研究や書物がある。『三教指帰』をはじめとする著書や『性霊集』[1]など資料が比較的豊富で、空海は人気者だ!
ここでは、「密教」を書く都合上、本当に「簡単」に空海について書く。
空海ファンの方、お許しください!
誕生
仏教が6世紀に日本に入り、鎮護国家の様相の中で、栄える。
そんななか、空海は、香川県善通寺市(旧讃岐国多度郡)に774年(宝亀5年)に生まれた。
父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)といい、讃岐国の郡司クラスで、朝廷とのつながりもあった。母は阿刀氏(あとのうじ)の娘。空海の幼名は眞魚(まお)。阿刀氏は学問に通じた家系で、叔父は阿刀大足(あとのおおたり)と言われ、のちに桓武天皇の皇太子教育にも関わったとされる人物であるとされる。
コメント===>結構いいとこの生まれですねえ〜〜
都入りから修行僧へ
15歳頃(789年)、阿刀大足について、論語、孝経、史伝などを学ぶ。
18歳で国学(大学寮)に入学。儒教・漢籍などを学ぶ。
しかし、『聾瞽指帰』(『三教指帰』の元となる空海24歳頃の書)には儒教、道教、仏教を比べ、仏教が最も優れているとしている。当時の律令制には満足できなかったのだ。
儒学に疑問を持ち、官僚になる道を捨て、各地の山林や辺境で独自に修行の道へ進んだようだ。そのせいか、この頃(〜24歳)から遣唐使として唐へ渡る(804年)までの7年間、空海の記録はない。空白の7年と呼ばれる。
コメント===>この時期の空海について、多く語られることはない。記録がないのだ。
しかし、色々なことが言われる。「空海は、すでに中国に渡っていた」、「空海はヘブライ人で、日本と中国を行き来していた」、「怨霊対策に不可欠な神宝の行方を追い求めた」とかだ。史実としての根拠は無いようだ。
みなさん、わからないことへの想像を膨らませ、楽しんでいる。
コメント===>現代の感覚から言えば、空海が安定した「官僚の道」を捨てたのは、やはりチャレンジャーだったと思ってしまう。
修行中、四国・室戸岬の断崖にある海辺の洞窟「御厨人窟」[2]で瞑想にふけっていたとき、空から輝く明星(金星)が口に飛び込んだ。その瞬間、宇宙の真理を悟ったと言われている。この体験が、後の密教への強い確信と渡唐の決意につながったらしい。
コメント===>この手の話は、どこまでが本当かわからない。宗教的啓示体験を象徴的に示すものと思われる。ただ、瞑想をしていると色々なものが見えるようだ。瞑想は、仏教にとっては思考を深め、真理に辿り着く重要な手段だ。言語では辿り着けない世界だとされている。この問題については、のちに詳しく書いてみる。
遣唐使に選ばれる
空海は804年、ついに留学僧として遣唐使に名を連ねることになる。その時、最澄も同じ遣唐使の一員だった。
「え〜〜、空海は官僚じゃないし」
「空海って、まだ名も無い修行僧だよね」
「それに、私度僧[3]だよね」
「どうして、遣唐使のメンバーに入っているの?」
その理由は、いまだにわかっていない。興味津々で、みんなあれこれ言うが、推測の域を出るものはない。記録がない(見つかってない)ので、どうしようもない。歴史学の楽しいところだ!
- 母方の叔父・阿刀大足のコネ説
- 『三教指帰』の文才と思想によって評価された説
- 朝廷が新たな密教に関心を持ち、既成仏教勢力の人材を選んだ説
- 当時の高僧最澄とは、異なるタイプを選んだ説
- 空海の書の才能、語学力、表現力と国際感覚が評価された説
選定理由はさておき、ついに、空海は804年に長安に入るのだ。
[1] 空海の詩、碑銘、上表文、願文などを弟子の真済が集成
[2] 今でも訪れることができ、四国八十八ヶ所霊場・第二十四番札所「最御崎寺」の奥の院とされている。洞窟の中には「空海が座禅を組んだ岩」と伝わる場所もあり、霊地として信仰されている。
[3] 官の許可をえて得度したものを官度僧というのに対して、官の許可をえず私的に得度したものを私度僧という。
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