ここまで、空海の出生から入滅までの道筋を辿った。
空海が中国から持ち帰った密教は、「中期密教」ではあるが、それはオリジナルのインド密教からは変容した、中国の思想も取り入れたものであった。空海は日本の事情に合わせる形で、『大日経(だいにちきょう)』(胎蔵界)と『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』(金剛界)の二つの曼荼羅を中心に体系化し、真言宗を確立した。真言密教は、国家安泰、五穀豊穣、病気平癒といった現世利益的な側面と、悟りに至る厳密な修行体系を持ち合わせている。
天皇や貴族層の支持を得て日本仏教の主流の一つとなった。貴族仏教としての一面だ!
次に空海が著した著書の代表的なものを見ながら、彼の教えを見てみよう。各著作の成立年代は、諸説あり、参考程度だと考えた方がよさそうだ。

1)『三教指帰』
空海が官僚への道を辞め、仏道へ入る決心を示したと思われる書だ。
延暦16年(797年)頃、20代半ばで執筆した。ここでは、儒教・道教・仏教の三つの教えを擬人化した登場人物たちが対話を行い、それぞれの立場から人生の真理を説く。最後に仏教が最も深遠で究極の教えであるとしている。主人公は世俗を捨てて山林修行に入る青年で、きっと空海自身の分身だろう。
これを読むと、空海が宗教家として名を成す以前、すでに仏教に深い理解を持ち、自身の道を決めていたのだろうと思う。
2)『即身成仏義』
この書は、弘仁8年(817年)頃(ただし、820年代後半の説もある)の成立と考えられ、密教において革新的な教えである「即身成仏(=その身のままで成仏する)」の概念を『大日経』や『金剛頂経』を大胆に引用しながら、打ち立る。
要約すると、人間存在は、本来的に大日如来の智慧と一体であるゆえ、正しく密教の修行を行えば、この身このままで成仏できるという趣旨だ。それまでの顕教における三刧成仏(さんごうじょうぶつ)の考えを大きく覆した。
コラム:三刧成仏
顕教では菩薩が布施・忍辱などを積み重ね、仏になるには三劫という想像を絶するほど長い修行期間が必要だと考える。一刧とは、百年に一度天女が降りてきて、天衣で4里四方の大きな岩を撫で、その岩が減り尽きるほどの長い時間だ。一方、密教はこれに対して「即身成仏」を主張した。
少し具体的に、以下に即身成仏を紐解く(面倒なら、読み飛ばしてねー)。
人間という存在を「五大(地・水・火・風・空)」の要素から成るものと捉える。これは仏の体(大日如来の身体)とまったく同じ要素からできている。さらに、空海は人間の心のはたらき識大を加え「六大」だとする。それは仏の智慧のはたらきでもあるのだ。六大の考えは空海オリジナルだ[1]!
仏(大日如来)は「身・口・意」の三つの働きを持ち、また人間も「身体」「言葉」「心」を持っている。そこで、空海は、「人間の三密」と「仏の三密」はもともと対応していると考えた。
密教の瑜伽の修行(三密行)により、この三密を仏と一体化させるのだ。
仏(大日如来)は五つの智慧(五智(ごち))[2]を具えており、人間も本来この五智を潜在的に持っているとし、密教修行を通してこの五智が顕在化すれば、即ち成仏できると説くのだ。
以下の偈頌[3]にまとめたのだ。
六大無碍にして常に瑜伽なり
四曼具足して一切成就す
五智如来は本より一体にして
四身円満にして更に余りなし
この空海の「即身成仏」思想は、「この現世、この身体、この瞬間において、仏と合一できる」という、非常によく整理された能動的・現実的な革新的宗教観だ。
即身成仏の考えのもとは?
即身成仏という言葉は、空海が『即身成仏義』を書く前から存在していたのは確かだ。『菩提心論』に出てくる即身成仏の言葉を引用している。ところが、この『菩提心論』について、多くの研究者はインド正統の論書ではなく、中国撰述(中国で作られた。7〜8世紀)とみている。それならば、中国発祥の思想なのか?果たして、インドにはあったのだろうか?
インドにも、後期密教の頃になると「此生成仏」(=即身成仏」)の考えが、『グヒヤサマージャ・タントラ』や『ヘーヴァジュラ・タントラ』に現れるようだ。しかし、唐に渡った空海が後期密教経典に触れていたとは考えづらい。
もう、この問題は、私が入り込める領域ではない。偉い学者先生にお任せするとしよう!
「即身成仏」と即身仏(ミイラ):たまに混同されるので、書いておこう。
空海の「即身成仏」と平泉などの即身仏(肉体をミイラ化する修行の実践)は直接は関係ない。
空海の「即身成仏」は、修行による現世成仏の思想(教理)であり、即身仏(ミイラ)は日本の山岳仏教・修験道(特に出羽三山)で盛んになった修行形態だ。自らの身体を捨てて衆生を救済する「捨身の行(しゃしんのぎょう)」の延長と思われる。
3)『弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)』
密教と顕教の違いを理論的に明確にした著作である。820年代前半から中頃の成立と言われる。仏教の教えを「顕教」と「密教」に大別し、その違いを明確にする。顕教は仏の言葉の説明にとどまるが、密教は仏の本質を直観的・実践的に体得できると説く。顕教では悟りに至るには三大阿僧祇劫を要する(三刧成仏)が、密教では即身成仏が可能であるという対比が中心となっている。これ以降、日本の仏教においては、「密顕の別」は基本概念となる。
4)『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』(820年代前半頃の成立)では、「声」(音)と「字」(文字)に仏の真理=実相が宿るという密教特有の言語観を展開する。すべての言葉は、仏の智慧や慈悲を表現するための直接的な働きを持ち、特に梵字や真言は仏そのものであると説く。言語は単なる記号ではなく、宇宙的真理と一体であるという思想が貫かれている。三密(身・口・意)の「口」にあたる「言語実践」の理論的裏づけとなる内容だ。
今まで、「仏教では真理は言葉では表現できない」と聞いてきて、なんかこの書で「ガーン!」と言う感じだ。あとで、私的感想をコラムで書こう。
5)『吽字義(うんじぎ)』
この書の成立は820〜830年代前半の成立と言われる。
字は字相と字義との二面を持つと言う。字相とは言葉の表面上の意味、字義は言葉の深秘の義を示す。吽字(huum)は賀(カ・ha)・阿(ア・a)、汗(ウー・uu)、麼(マ・ma)の四字に分解でき、それぞれの字相は訶は因(hetu、因)、阿は不生(aadi、本初)、汗は損滅(uuna、損滅)、麼は増益(mama、吾我)意味をもつ。それぞれの字義は、訶字は一切諸法因不可得、阿は一切諸法本不生不可得、汗字は一切諸法損滅不可得、麼字は一切諸吾我滅不可得、と言い、それぞれが、法身、報身、応身、化身の身体に配当されると説く。
文字や言葉には仏の教えのはたらきが表されており、仏の説法(法身説法)であると説く。吽の字には密教の諸教論の教えが重なるように含まれ、「三句の法門」も吽字一字に帰すと述べる。『即身成仏義』にも通じる、言葉(字)の真実の力を示した書だ。
2回に渡り高野山大学のK先生の授業を受けたが、難しい!分からん!
コラム:真言宗における言葉とは
『声字実相義』では、「声と字(言語)が真実を表し得る」と説いている。
一方、仏教では言葉は人間の概念化を作り出し、言葉では真理を見出すことはできないと言っている。
では、空海の『声字実相義』の思想は、この矛盾の中でどのように捉えればいいのか?以下、私的考察だ。
基本は、空海は言語を単なる人間の概念化の道具ではなく、「仏の働き」そのものと見る。かなり過激だ。
これまで何度も習ってきたが、中観派では、真理は無分別智(むふんべつち)によってしか悟ることができず、言語では真理を表現できない(「不可説不可思議」)と説く。例えば、龍樹『中論』の「涅槃は言葉で言い表すことができない」だ。
しかし、空海は、問い直す。
「仏は言葉(真言)によって教えを説いたのではないのか?」
「仏の言葉は「音声」や「文字」を通じて世界を救済するではないのか?」
「そうだ、その通りだ」
そう考えた空海は、『声字実相義』で、
「声(音声)・字(文字)・義(意味)は三つにして一体であり、仏の身(行動)・口(言葉)・意(心)と対応し、実相(真理)を表現している」
「言葉は仏の“行為”であり、実在そのものを構成する神秘的力(加持力)だ」
それじゃ、勝義諦、世俗諦との関わりはどうなるのだ!
龍樹のいう「勝義諦」、「世俗諦」と言う概念がある。菩薩は、まず勝義諦(空=不二)を悟り、その後、衆生世界の「世俗諦」に戻り、衆生救済を行う。
なぜなら、衆生世界での救済のためには、具体的な価値判断が必要になり、空(不二)の世界(勝義諦)にとどまることはできない。
菩薩は「勝義諦」を悟りつつも、世俗諦では方便(言葉・概念)を駆使して人々を救済するのだ。
空海は、『声字実相義』の主張にあるように、世俗諦で用いられる「言語」そのものに勝義諦的な真理が宿ると考えた。
極論すると、「世俗諦」=「勝義諦」。なんと大胆な!
空海は、さらに一歩進た。
「空と仮(世俗)を区別すること自体が分別だ」
「仮(声・字)そのものが空(実相)を顕現している」
空海は、言葉を再聖化し、衆生世界をも仏の現れと見る視点を打ち立てたのだ。
6)『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』
天長10年(830年)頃、淳和天主の勅令で、空海が密教体系を総合的に述べた教相判釈(きょうそうはんじゃく)[注]を書く。全10巻からなる大部。「教相判釈」だが、ここでは人の心、そして宗派、宗教の順位付けだ!
人間の心のあり方(=「住心」)を十段階に分類し、各段階を宗派にも割り当てる。例えば、初級の外道心から始まり、小乗・大乗・唯識などを経て、第九住心の極無自性心(ごくむじしょうじゅうしん)は華厳宗、最上位の秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)は、真言宗に対応する。各住心は、それぞれの宗派の教義や修行方法を反映しており、仏教全体を包括的に位置づける。
結構、空海はランク付けが好きなのだなー、との印象を持ってしまう!
[注]仏教の経典を分類・体系化し、その価値や仏の真意を解釈すること
7)『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』
『十住心論』とほぼ同時期(830年頃)に執筆され、その要約的位置づけを持つ。『十住心論』の要点をまとめた書。仏教の諸の教え(教相)を整理し、十住心を再度簡明に説明しつつ、密教の優越性を強調する。「秘蔵」とは仏の深奥な教え、「宝鑰」とはそれを開く鍵を意味し、密教こそがその鍵であるとする。
この二作『十住心論』と『秘蔵宝鑰』により、空海は密教が日本仏教の最高教義だと主張した。
8)『般若心経秘鍵(はんにゃしんきょうひけん)』
『般若心経』を密教的視点から読み解いた注釈書であり、一般的な顕教的解釈とは異なる深層的意味を探る。成立は空海晩年の作で、824-834年頃の成立と言われる。空海は「色即是空 空即是色」などの語句を密教的に読み替え、大日如来の智慧・三密の働きとして解釈する。表面的には短い経文の中に密教の奥義が秘められていると説き、真言について次のように述べる。
真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く。
一字に千理を含み、即身に法如を証す。
真言とは不思議な力を持っており、読誦すれば無知が取り除かれる
真言の梵字一字にたくさんの真理が含まれており、その身のままでさとりを得れる
あまりうまく説明できていないが、ともかく空海の著作が、その後の日本密教、いや日本仏教に大きな影響を与えたのは想像に難くない。
空海の著作は、なかなか大胆で独自の解釈が多く含まれている。引用する経典についても、彼独自の解釈が多く見られるように思う。
簡単にいえば、天才なのだ!
なお、高野山大学編纂の十巻章(改訂版)には『菩提心論』が含まれるが、「空海真筆ではない」と考える研究者もいるようで、ここでは取り上げなかった。
[1] 「六大」という言葉は、空海以前にインドにもあった、と聞いたが、、、(不明)。
[2] 大円鏡智(だいえんきょうち、万象を映す鏡のような智慧)、平等性智(びょうどうしょうち、すべての命を平等に見る智慧)、妙観察智(みょうかんざっち、事物の差異を明らかに見る智慧)、成所作智(じょうそさち、行動を正しく導く智慧)、法界体性智(ほっかいたいしょうち、宇宙と一体である根源的智慧)
[3] 現代語訳(意訳):この身は地・水・火・風・空・識の六大からなり、妨げなく通じ合い、常に仏と一体の修行(瑜伽)をなしている。四種の曼荼羅(法・大・三昧耶・羯磨)がすべて具わっており、あらゆる成果を成し遂げる。五智如来はもともと一体であり、四つの仏身(法身・報身・応身・変化身)も完全にそなわっていて、何一つ不足はない。




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