3-1仏は一人じゃなかった⁉︎
初期仏教では、仏とは「ブッダ=ゴータマ・シッダールタ」のこと。
「この世に一度だけ現れた、歴史上の一人の偉人」だった。
でも、大乗仏教では変化が起こる。
「仏は、そんな一人きりの存在じゃない!」
「いや、むしろ無数いる!」
「ブッダ一人じゃ、あらゆる時代・あらゆる人々を救うには足りない」
「時間・空間を超えたブッダ必要だ」
「ブッダは、昔も、今も、未来も存在する」[1]
スケールが爆発的に大きくなる世界観が登場する。
コメント===>正直、最初は「えっ、なんで、そんなに増えちゃうの?」と思った。
「たった一人の悟り」から、「すべての世界・すべての人への救い」へと、視野が広がり、さらにそれぞれのニーズにあった仏様が必要になったのだ。
3-2 三身説──仏は“三つの顔”を持つ?
仏は無数にいる――でも、それぞれバラバラに存在しているわけではなく、「仏とは本来こういう存在なんだ」という考えも生まれた。三身説[2]だ。
簡単にいうと、次の3つの「あり方(身)」がある。
- 法身:真理そのもの。姿形はなく、あらゆる仏の本質を表す。でも、通常は見えない。だから説法もしない。
- 報身:悟りを完成した仏の姿。修行の結果として得られる清らかな存在。
- 応身:私たちの前に姿を現してくれる仏。ゴータマ・ブッダはこの応身に対応する。
コメント===>個人的には、三身説は理論的には綺麗なのだが、、、なんとなく、どうでもいいようなきがする。空海が「法身説法」という考えを出したようだ。真理そのものである法身が説法してもいいじゃないか。仏教は、理論的で面白いが、時々辻褄合わせをする気がする。
3-3 阿弥陀仏、薬師如来、観音菩薩、その他大勢
この三身説を土台にして、大乗仏教ではさまざまな仏や菩薩が登場する。菩薩は仏ではないが、菩薩も「救済者」として徐々に信仰の対象になっていく。
例えば、
- 阿弥陀仏:極楽浄土をつくり、私たちを迎えてくれる仏。
- 薬師如来:病を治し、身体の苦しみを癒してくれる仏。
- 観音菩薩:あらゆる人の声を聞き、どんな形にもなって助けに来てくれる菩薩。
コメント===> “仏キャラクター図鑑”のようだ。でも、これは決してキャラ立ち競争ではなく、苦しみのかたちがそれぞれ違うように、救いのかたちもそれぞれ違う。それぞれのニーズに合った救いが必要なのだ。そう言う考えが、多仏思想の根底にあるようだ。
コメント===>いっぱいの仏さんが居る世界観「多仏思想」が成立する。元々、日本には八百万の神という考えがあって、いたる所に神様はおられた。そう思うと、この仏教の「多仏思想」は日本人には馴染みのよい考えだったろう!さらには「神仏習合」へと発展するが、きっと日本人には抵抗なかっただろう!
[1] 『法華経』に釈迦は遥か遠い過去から仏(悟りを開いた者)だった。ところが、輪廻転生を繰り返した後についに釈迦として誕生して悟りを開くという一連の姿を敢えて示したという考え方(久遠実成)。久如来寿量品第十六で、釈迦は、「わたしは常に存在し、滅することはない」と説かれている。
[2] 四身説もある。法身、法人、応身の三身説のうち、報身を他受用身と自受用身に分けて捉えたもの
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