ブログで書いてきた「学んだ仏教」を終えた。
次はどうしよう!
もちろん、「学んでない仏教」で書きたいことはあるけれど。
ただ、ブログとしてはこんなのは面白くない、と感じていた。
私はあくまでも、煩悩に従い、
みんなが読んでくれるグログが書きたい。
多少空想があっても、面白いブログを書きたい。
格調高い誰も読まない崇高な文章を書きたくない。
学者の時のように、間違わない文章だけを書きたくない。
「学んだ仏教」が終わりに近づいた頃、ちょうど「後期密教」に突入したころだったが、友人のHさんから言われた。
「あなたの書いている仏教の話は、自分で分かったことをまとめているだけで、おもしろくない!」
気を遣いながら言ってくれたが、私も薄々、同じようなことを思っていた。
「高野山大学へ入り、仏教を学んだので、それを整理して、まとめておこう」
「初めて仏教を学んだので、仏教の全体構造(主に思想的な流れ・構造ですが)を示しておきたい」
そんな気持ちで書き始めたが、、、
これでは、読んだ方は
「はい、わかりました。それで〜〜?」
「なるほど…でも、それで私に何が起きるの?」
となるだろう。
A Iにもこれまで書いたものを見せて、聞いてみた。
「はい、そのように読めますね」
「あなたが理解したことをまとめて書いているので、よくまとまってはいますが、教科書のようですね」
「これでは、読んだ人が話に参加できず、自分のこととして考えられない」
さらに、AIは続ける。
「人に説明するタイプの文章です」
「学者や学校の先生など、よく陥る落とし穴です。これまで「説明する側」「教える側」であった人には、よくあることです」
言い訳をしそうになったが、あまりにも友人やAIの意見が正しいように思えた。
「う〜〜」と飲み込み、
今後の方針を考えることにした。
では、どんな方針でいくのか。
「せっかく仏教を学んだのだから、仏教に関係したものが書きたい」
「仏教でテーマを絞りながら、少し軽い目の文章で書くつもり」
とAIに言ってみた。
「それは、 読者拡張として必須です」
「しかし、“軽くする”、“こなれた形にする”、これを文体だけの問題だと思うと、失敗します」
「「学んだ仏教」の延長線で「テーマ別解説」などはもってのほかです」
「読みやすくした“教科書”で終わります」
「説明ではなく、発見とすべきです」
と、AIとしては、厳しく言ってきた。
さらにAIは続ける。
「分かってないのですか。あなたには、人生後半(第二の人生)の視点、学術的経験、理系としての経験があります」
「あなたに一番合うのは、「理系の違和感」一本勝負です」
「そこに、あなたの体験があります」
AIに厳しい意見をお願いしておいたが、それでもなかなか、AIにしてはきつい!
そんなに、簡単に「理系の違和感」が見つかるかどうかはわからない。
これまでも、「科学の実証、仏教の実証」「死後観」「仏教と量子力学」なんかを書いてきた。まあ、これも「理解したことをまとめた」だけだったかもしれない。
どうなるかわからないが、少し休んで、もう一回、考えてみよ。
「学んだ仏教」もそのバックグランドとしては、意味があるかもしれない。
退職した爺さんなので、時間はある。
いや、死ぬまでの時間は短いかな〜 笑
生きて、次回が始まるのを期待ください!



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