授業料を払って学んだ仏教(特に密教)について、疑問も含め、独断的に書いてきた。
一方、プロローグでも書いたが、科学的思考をベースに生きてきた人間にとって、「仏教教理」だけなら
「あー、そうですか。そのように考えるのですね」
と知識として受け入れることはできる。しかし、なかなかそうはいかない考えや思考方法もある。
プロローグで書いた「超能力(神通力)」や「見えないものが見える力」なんかも、お経に書いてあったとしても、自分の体験がないので、自分の中でどう整理するかは難しい!
仏教は輪廻転生を教える。
「人間死んだらどうなるの?」
この問題は、生きてる人間は誰も死んだことはないのだから、分かるはずはない。
でも、仏教教理の多くはこの「輪廻転生」をベースにしている。
このブログでも、当たり前のように、「輪廻転生」を書いてきた!
死後の世界を考えてもいいのだろうか?
分からない。
すでに、フライングして、仏教的死後観、科学からのアプローチとして臨死体験研究、幽体離脱研究、輪廻転生研究、さらには人間の意識の貯蔵庫として「ゼロポイントフィールズ」の可能性など、「死後観」としてブログに投稿してしまった。
もう一つ、かなり厄介な問題は「信仰」である。
全くわからん!
自分は「信仰」はないと思っていた。しかし、考えてみると、初詣や七五三、お食い初めなど何かあると、寺社に言ってお参りする。家の墓があり、お彼岸とお盆には墓参りに行き、手を合わせる。社会的儀礼だと言われればそれでまでだが、なぜ寺社に行き、墓参りをするのだろうか?
そろそろ先祖の墓を見守ってくれるような人も亡くなりそうで、墓終を考える。放っておいても良さそうだが、やはり気になる。
確かに信仰深い人もいる。自分でそのように言い切る人もいる。何を持って信仰深いというのだろうか。そのような人たちの多くは、出家しているわけではないので、戒律を守って生活しているわけではない。
お寺にお布施をしているから、信仰深いのだろうか?
お経を唱えることができるから、信仰深いのだろうか?
毎日、お経を唱えるから、信仰深いのだろうか?
信じていると思っているから、信仰深いのだろうか?
世の中には、仏教だけでなく、信仰の深い人がたくさんおられる。
自分の生き方の指針にしておられるのだろうか?
苦しい自分に対して何か救いを求めておられるのだろうか。
人間には必要なものなのだろうか?
仏教を学んでいると「瞑想」は思考方法として、大きな意味を持つ。
「言葉では真実は語れない」と教える。
言葉は、物事の概念化を促し、分別(物事を2つに分けて考える)のもとになる。それでは「空」の思想には辿り着けない!
瞑想により、どのようなものが見えてくるのだろう。
いやいや、このように考えることに意味がないのだろうか?
瞑想にもいくつかの段階があるようだが、最終的には、自律神経のコントロールも可能なのだろうか?精神世界と言われている阿頼耶識のようなものにアクセスできるのだろうか?
(瞑想をやり始めたが、難しい!)
これらは、仏教を学び始めるとすぐに気になる。今後、書いてみようと思う。
その他にも、気になることはたくさんあり、それらについて「仏教と科学の狭間で」のカテゴリーとして書いていく。
まあ、科学でも不思議なことは起こる。
よく言われる「トンネル効果」、すなわち壁の向こうに物質が通り抜けていく現象は、まるで幽霊を見るようだ!絶対零度の死の世界でも、量子はゼロ点エネルギーを持つ。完全な真空(量子真空)でも、揺らぎは起こる。最近話題の「量子ねじれ」もそうだ。二つの相関した粒子はいくら離れていても、相手の状態が分かり、光の速度よりも速く相手の状態に反応する。目の前で、こんなことが起こったら幽霊を見たのと同じぐらいは、驚きひっくり返る。だた、我々が感じることのできる通常の世界では起こらない(見えない)ですが、、、
科学だけではないが、自分たちが持つ常識が正しいと思ってはいけない!
目で見えるものだけが、正しいわけではない。
我々が目で感じることのできる光は、可視光(300〜800ナノメートルぐらいの波長のもの)だけだ。他の光、ガンマ線、X線、紫外線、赤外線、電波(ミリ波、マイクロ波、短波、中波など)も、人間は使っているけれど、目には見えないのだ。発見前は、無いもの同然だった!
世の中、わからないこと、知らないことの方が多いのだから!
そのような立場から、仏教と科学について、大学でのエピソードも交えて書いていこう!




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