11-5-6 死後観(6)ゼロポイントフィールド

仏教と科学

ここから先は科学的事実ではなく、あくまで可能性の話です。

ゼロポイントフィールドZPF)は、真空そのものに宿るエネルギーの場だ。そこには、もともと“波打つような揺らぎ”が常に存在する。普通の波なら時間とともに摩擦や抵抗で消えるが、真空のゆらぎはそうした要因がなく、消えることのない波のように考えることができるかもしれない[1]。もしそこに記憶や意識の痕跡が「情報の波」として刻まれるとどうだろう。異なる周波数の波が存在できるとすると、ほぼ無限の情報を保存することが可能だ。そうであるなら、ZPFは宇宙規模の「記憶の場」として機能する。

これは仏教の阿頼耶識や、神智学のアカシックレコードとその機能は似ているが、違いはZPFが物理学で確かめられた現象だということだ。その意味で他の仮説より「現実的可能性」をもつ。

宇宙のゼロポイントフィールドにおけるエネルギー揺らぎ(イメージ図、AI)


輪廻と死後を考える手がかりとして

もちろん、現代科学はZPFに記憶保持の機能があることを実証していない。しかし、「もしそうならば」という仮定の上に立てば、輪廻転生や死後意識の持続を説明するための有力な候補となる。

阿頼耶識や集合的無意識は、人間の内面を出発点に想定された概念だし、アカシックレコードは神秘思想の一部として提案されたものだ。これらに比べてZPFは、出発点が異なり、宇宙の物理的基盤として提出された概念で、すでにある程度確認されている現象だ。

私たちが死んだあと、記憶や意識がどのように扱われるのかは、いまだ全く未知の領域だ。けれども、宇宙が「記憶を抱く場」そのものであると考えれば、私たちの存在は消え去ることなく、刻まれ続けていることになる(知らんけど!)

こんな考えは、なんの根拠もない可能性だけの議論だ。

ただ、宗教も科学もわからないものに対しては、かなり近い発想をする。要は、「人間の考えるもの」なのだろう。世界の始まりや意識の世界などについては、特にそうだ。簡単に言えば、科学でも解明が難しい領域だ。


ある時、「霊を呼べる人があったら会ってみたい」と発言した。
友人に言われた。
「お前みたいに物理やってる人間がそういうこと言うの?」
彼は、
「物理的に「霊」は存在しない」、もしくは
「現代の物理はそれを否定している」と考えているのだろう。


科学で証明されていないから、そんなことは起こらないと誰が言えるだろうか。
科学が解明したことなど、本当にほんの少しなのだから。
しかし、科学は仮説を立て、ゆっくりではあるが、間違いを犯しながらも、それを実証しようとする。一方、宗教はそれを信じる。たぶん信じた方が、人間としての生き方が正しいものになるからだろう。

以下、高野山大学W先生の授業での「十二縁起」に関するレポートの最終部分の引用で、私見だ。

現時点では輪廻転生があるかどうかの客観的な結論は得られていない。しかし、そのようなことはどうでもいいのではないだろうか。
W先生の授業で、多くの機会に、「何かをするとき、その動機が大切である」と聞きました。もし、人が死んで、何も残らないなら、現世で何をしようが、どのような悪いことをしようが、死ぬことにより全てが消滅するのなら、享楽に溺れて生きればいいと思われます。しかし、それでは人は満足しないでしょう。では、人はどのように生きれば満足するのでしょうか。やはり、自分(自我)にこだわらず、悪いことをせず(十善戒を守り)、善業を積み、人のためにできること(利他)をなすことではないでしょうか?そのための一つの原動力(動機)として、「輪廻転生」を考えることができると思います。すなわち、現世で享楽に耽ると、来世では悪趣に落ちるので、それを避けるためにも現世で善業を積むのです。何も、「輪廻転生」を科学的に証明する必要はなく、自分の生き方のために、そして自分の動機を裏付けるために、信じるのです。これが現在の私の考えです。


[1] ここでちょっとずるいことをした。“波打つような揺らぎ”と書いたが、ZPFはあくまでも揺らぎであり、波ではない。「絶対減衰しない波=消えることのない波」へ導こうと“波打つような”との表現を使った。ちょっと大胆すぎる仮説だな!

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