2-1 仏性
初期仏教や部派仏教のころ、仏(ブッダ)は「この世界に一人だけ現れる、すごい修行者」であり、遠い存在。伝説の人。自分がなれるとは思えない存在だった。
でも、大乗仏教はそこに疑問を投げかける。
「いやいや、誰だって仏になれるんじゃないの」
「というか、仏って、私たちの中にもともとあるんじゃない」
「私たちすべての存在に、仏になれる本質(種)が宿っている」

これが仏性という教えだ。
- 悪人にも
- 無知な人にも
- 動物にも
- あるいは草木や石ころにすら…
すべてのものに「仏になる可能性がある」と説く。
コメント===>ちょっと、「言いすぎ」の気もするが、、、
2-2 如来蔵思想──心の奥に仏がいる?
この仏性の考えをさらに具体化したのが、如来蔵思想だ。
「如来蔵」とは、「すべての生き物の中に仏(如来)が“しまって”ある」というイメージ。
仏は外にいるのではなく、もともと内側にある。ただ、煩悩や無知によってその姿が見えなくなっている――という考え方だ。
コメント===>逆転の発想だ。
これまでは「仏になるには、ものすごい修行をしなくてはいけない」と思っていた。でも如来蔵思想は、「すでにあるんだよ」と言う。
問題は「それに気づけるかどうか」だ。
それは「怠けても仏になれる」という話ではなく、誰の中にも仏性はあるが、それを現すには、気づきと厳しい修行が必要だ。
でも、如来蔵思想を盾にとって、「もともと仏なら、修行なんてしなくてもいいのじゃない」という輩が出てくる。
どの時代も、ことの道理をはき違える奴はいるようだ。これを批判した経論は多くある[1]。
[1] 例えば、『大般涅槃経』巻第26、「善男子!菩薩修習三十七品,入大涅槃,常、樂、我、淨,為諸眾生分別解說大涅槃經,顯示佛性。若須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支佛、菩薩,信是語者,悉得入於大般涅槃。若不信者,輪迴生死」
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