一般に宗教には戒律は多くある。
仏教にも多くの戒律がある。
でも、日本ではお坊さんでも必ずしも戒律を守っているわけではない。
仏教において、戒律はどのような役割を持っているのか、考えるとよくわからなかった。
私は長いあいだ科学の世界にいた。
科学者の仕事は、言ってみれば「自由な発想」「新しい発想」が命である。
常識にとらわれない仮説を立て、それを実験で確かめる。
むしろ、常識を疑うくらいでちょうどいい。
もちろん、科学の世界にも倫理はある。
データを捏造しないとか、人の研究を盗まないとか、基本的なルールである。
当たり前の研究の誠実さの問題であって、生活の細かいことに関する規制はない。
むしろ、規則なんか作られたら、
「なんで、そんな制約守らないといけないのだ!」
怒り出す人がほとんどだ。
戒律は道徳?
仏教には多くの戒律[1]がある。
代表的な五戒[2]を見ると、
- 生き物をむやみに殺さない
- 不適切な性行為をしない
- 人のものを盗まない
- 嘘をつかない
- 酒を飲まない
さらに出家者になると、戒律は何百にもなるという。
これはずいぶん窮屈だ。
科学者的感覚からすると、こんなに多くのルールを作る意味がよく分からない。
「ひょっとすると、これは道徳[3]なのだろうか」
と考えたこともあったが、どうも違う気がする。
道徳は、たいてい
悪いことをしない、正しい人になる、社会に迷惑をかけない。
そういう話である。
仏教の戒律は、どうも少し雰囲気が違う。
「社会的に善悪をわきまえて正しい行為をしなさい」
と言っているようには、感じない。
行動が心に影響する?
行動心理学で言われるように「行動が心理に影響を及ぼす」[4]ので、
まずは戒律で行動を規制するこにより、慈悲の仏教的心を作ろうとしている、
とも推測した。でも、ちょっと違う気がする。

「会場絵」と描かれた扁額(https://ja.wikipedia.org/wiki/三学)
戒・定・慧
仏教では、「戒定慧」という三学がというのがある。簡単に言うと、
戒:悪を止め、行動を整えること。
定:心が落ち着くこと。
慧:物事がよく見える智慧を持つこと。
この流れでは、「行動」から始まる!
行動 → 心 → 理解
きっとこれだ!
仏教は「善人になりなさい」とは言わない。
しかし、「まず戒を守りなさい」という。
戒・定・慧に従えば、仏教の目的は「良い人になること」ではなく、
心をよく観察することのようだ。そのために、行動を整えるのだ!
例えば嘘をつくとどうなるか。
人間はなかなか正直な生き物ではないので、すぐ嘘をついてしまう。
(たくさん、身に覚えがある)
問題はそのあとなのだ。
嘘をついた後、
「あの話は誰にしたのだったか」
「話のつじつまは合っているだろうか」
「どこかで、バレないだろうか」
などと、頭の中で小さな会議が始まる。
つまり、心が落ち着かない。
自分の心を静かに観察するどころではない。
戒律というのは
「善人になるための道徳」
というよりも、
「心を観察するための条件づくり」
と言うことなのだろう。
ここでふと、研究の経験を思い出した。
研究をしていると、面白いことに、議論しているときに急に「分かった」と思う瞬間がある。
ホワイトボードの前で、ああでもないこうでもないと話しているうちに、ある瞬間に霧が晴れる。
もし、誰かに嘘をついていたり、誰かのものを盗んだりしていたら、
きっと、心は落ち着かず、
議論に集中できない。
心が落ち着く、頭がクリアであることは、科学の議論においても絶対重要だ。
仏教の戒律は、もしかするとこれに近いのではないかと思う。
心が落ち着く条件を整える
すると心が落ち着く、さらに心が見えやすくなる。
戒律というのは宗教的な命令というより、
むしろ修行のための実験条件
かもしれない。
単なる道徳の押し付けではない、そう思えてきた。
[1]修行者の生活規律。仏のいましめを自発的に守ろうとする心の働きをいう戒と、僧に対する他律的な規範をいう律を合わせて戒律という。
[2] 五戒とは不殺生戒(生き物を殺さない)、不偸盗戒(盗みをしない)、不邪淫戒(不適切な性行為をしない)、不妄語戒(嘘をつかない)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)である。
[3] 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く(コトバンクより)。
[4] いくつかの理論があるようだ。「自己知覚理論」:行動から自分の性格や態度を推論する。「認知的不協和」:行動に合わせて態度が変わる。「習慣形成」繰り返しの行動が心理傾向を作る。




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