12-3-3 信仰(3)自然にそうしている

自然にそうしている 仏教と科学の狭間で_2
自然にそうしている

それでも、まだ信仰って、分からない。

次に進もう!

先に書いた「意味さえもわからずお経を唱えている」四国・香川のおばあちゃんは、明らかに信仰心を持っている。前のブログで言ったような「自分で気づいて変わり、解放される」といった信仰とは、違うような気がするな。これって、「頭でっかちな信仰」と言われそうだ。

高野山大学の学友Kさんは、小さい時から毎日お経を唱えていたという。今でも1日1時間はお経をお唱えるそうだ。面と向かって聞いたことはないが、明らかに信仰を持っていそうだ。彼が「信仰を持つぞ」と決意して、信仰を持ったとは思えない。

そうだ、信仰を持つぞと決意したからといって、また、いくら仏教教理を学んだからといって、信仰が持てるわけはないだろう。
もしKさん本人に聞いたとしても、明確に「これこれこの時です」「これをきっかけに信仰を持ちました」という答えが返ってくるとは思えない。
想像だが、体験、救い、出会い、危機、感動、納得などを通じて、心が動く(感動する)ことがある、 “腑に落ちる”経験をする、奇跡を見る、というようなきっかけで信仰を持つようになる人はいるだろう。
しかし、そんなにうまい具合に機会が訪れるとは限らない。信仰とは、信じ込もうとして持てるものではなく、「自然にそうしている」ことの中に、ひっそりと息づいているものかもしれない。

なんだか、うまいことまとめようとしているような気がする

では、「自然にそうしている」とは?

  • 仏教の教えを学び続けている
  • お寺に足を運ぶ
  • お坊さんと話をする
  • 自分の心を見つめようと瞑想をする
  • 子供の頃からの習慣

無理やり決心するものではなく、ただ静かに「そこに居る」。
そんな中の気づきから起こってくる。そして、気が付けば、「そこに居る」。
信仰を持つ自分が「そこに居る」のかもしれない。、、、知らんけど!

いろいろ書いてきたけど、やっぱり信仰は分からん。
持てなくてもいいような気もする。
自分が信じる道が見つけられるならば、、、

この歳で、こんなと言っているようでは、いかんな!
孔子『論語』がいう不惑の年は遥か彼方の昔に超えたのに、、、。そして、今「七十にして心の欲する所に従っても、矩(のり)を踰(こ)えず」という。
残念ながら、この歳でも、まだまだ矩(のり)を踰(こ)えそうだ!

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