涅槃、仏教に興味を持ったことがある人なら、聞いたことはあるだろう。
仏教の本を読むと、そこには「苦しみの終わり」とか「安らぎ」といった言葉が並んでいる。
「悟り」を得た後に、行ける場所だ(と思っていた)。
そこは、「怒り」も「欲」も「苦しみ」もなく「静かで穏やか」な争いのない天国のような場所だと思っていた。
それが仏教の目標だと思っていた。素晴らしい場所だ。
しかし、一方で、
「欲望もなく」
「刺激もない」
「何もやることもない」
そんな世界は、静かで争いはなくとも、むしろ退屈な世界だ。
本当に行きたいかと言われると、考えてしまう。
ここまでが、最初に聞いた時の印象だ!
涅槃は場所ではない!
しかし、すぐに涅槃は場所ではないとわかる。
なんとなく、天国や地獄のイメージがあり、場所だと思っていたのだが、そうではない。
涅槃とは、「悟り」の世界、心の世界なのだ。
こちら側 ―― つまり、自分の「あり方」「見方」が変わることだという。
外の世界が変わるのではなく、世界の見え方が変わるのだ。
そう考えると、少し様子が違う。
同じ現実の中にいながら、見方が変われば、
欲に振り回されず、
怒りに巻き込まれず、
物事をそのまま受け取る、
ことができるという。
涅槃とは「退屈な場所」ではなく、「自由な状態」と言った方がいいかもしれない。
でも、悟らないと、涅槃にはいけない。
悟らないと、死んで輪廻して、また次の生で、「苦」の世界を歩むことになる。
ひょっとすると地獄かもしれない。
涅槃の謎 ー 有余涅槃と無余涅槃
仏教には「有余涅槃(うよねはん)」と「無余涅槃(むよねはん)」という言葉がある。
「有余涅槃」とは、煩悩が完全に消えているにもかかわらず、身体がまだ残っている状態を指す。
悟った釈尊や阿羅漢が生きている間がこの状態だ。
「無余涅槃」は、身体も亡くなった状態。
いわゆる入滅(死)であり、輪廻も断たれている。
「余(あまり)」は「残っている命」より「残った生理現象」を言っているのかもしれないな〜

有余涅槃と無余涅槃(by Chat GPT)
有余涅槃では、身体はあるので、空腹や眠気、性欲など生理現象はそのまま残る(と思われる)。
この残る生理的現象はどう考えるのだ。
ここをどのように仏教が考えているのか?
あまり、聞いたことがないので、Chat GPTに聞いてみた。
「仏教はここで「欲」を大きく分けて二つの層を考える」との答えが返ってきた。
1)執着を伴う欲である。「もっと食べたい」「良いものを手に入れたい」「快楽を維持したい」といった、自我と結びついた欲望である。
2)身体の働きとしての欲、すなわち空腹や眠気のような生理的現象である。
有余涅槃において完全に消えているのは前者であり、
後者は、身体がある以上、条件が整えば起こる、らしい。
仏教的にいうと、
有余涅槃の状態では、空腹はただの空腹として現れる。それ以上ではない。
必要であれば食べる。ただそれだけで終わる。
欲は現象としては現れるが、それ以上に発展しない。
言い換えれば、「感じる」ことはあっても、「とらわれる」ことがない。
仏教では、阿羅漢は性的な執着を完全に断っているとされる。
ただし、身体としての反応の可能性が理論的に全くゼロかと言われれば、そう単純ではない。
しかし、対象に対する意味づけや魅力づけがすでに消えているため、それは欲望として成立しない。
刺激があっても、それが欲望・執着へと連鎖しないのである。
むしろ、それをあるがままの現象として見つめ、そこに余計な意味づけをしない。
言い換えれば、「感じながらも(受)、執着(煩悩)にならない」という、一つの極限を静かに指し示している。
有余涅槃という概念は、悟りがどこか非現実的な特別状態ではなく、身体を持ったまま到達しうるものとし、「悟り」を非常に現実的に捉えているように感じる。
まあ、そんなものかなと思う。
自分では、とうていと到達できそうもないが、、、
ただ、このような考えは、どこかの経典にまとめられているようではないらしい。
あえていうと、
初期仏教の解説「有余涅槃では五蘊は残るが、煩悩は滅する」、アビダルマの解説「五蘊の分析、心所の分類、煩悩と感受を区別する」さらに瞑想論(四念処など)「巻き込まれない」のまとめとして、上のような考えが出てくるようだ。
科学者の知的好奇心はどう考えるのだろう、、、
時には、自己顕示欲や名誉欲とも繋がっているが、、、
自分も含め、それが原動力になっている人も多くいる。
仏教的には、ダメなやつなのだろう、、、



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