今更だけれど、菩薩と如来について、書いてみる。
恥ずかしいが、仏教を学び始めるまで、私は「如来」と「菩薩」の違いを知らなかった。
お寺で、仏像を見ても、「ありがたい存在」というぐらいだった。少し学び始めると、違うことがわかってくる。
そうすると、お寺でもらうパンフレットにも、時々その違いが書いてあることに気づくようになる。
よくあることだ。こちらが変わると、見えなかった情報が見えてくる。
簡単にいうと、その違いは、
如来:悟った人
菩薩:悟りに向かって修行している人
たとえば、釈迦や大日は如来であり、観音や地蔵は菩薩である。
さらに、着ているものも違う。
如来は、質素な衣(袈裟)で装飾なしだが、
菩薩は、宝冠・首飾りの装飾を身につけている。
さらに、さらに、如来も菩薩も一人や二人ではない!
如来には、阿弥陀如来や薬師如来などなど、、、
菩薩には、観音菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩などなど、、
最初は、「役割分担のようなものだろう」と思った。
確かにその面もあるだろう。
だが、どうもそれだけではないらしい。
むしろ、悟りというものがあまりに深く、豊かなために、一つの姿では表しきれず、多様な側面として現れているらしい。
私に、深い悟りはないが、もし悟れば(見方が変われば)、見えてくるのだろう!
そもそも、菩薩[1]という考えが出てきたのは、利他の考えが出てくる大乗仏教になってからだ。自分だけが悟るのではなく、すべての人々(衆生)を救済する(悟らせる)、という思想だ。
菩薩は、自分だけ先に悟る(涅槃に入る)ことをせず、他の人々と共に悟りへ向かう誓いを立てるのだ。
さて、ここまででも十分に複雑だが、密教に入るとさらに様子が変わる。
密教では、如来と菩薩がはっきりと分かれていない(気がする)!

武盧舎那仏(大日如来、東大寺)

十一面観音菩薩(三十三間堂)
え〜〜!悟った人と修行者が分かれていない。ちょっと理解不可能と最初は思った。
その背景にあるのが、大乗仏教の時に現れた「すべての人に仏となる素質がある(如来蔵思想)」や「すべてのものは固定実体を持たなず変化する(空思想)」という考え方だ。さらに、日本密教では、空海が『即身成仏義』で、この身このままで仏になると言い出したのだ!
(このあたりのことは、すでに「5-1 菩薩思想」、「5-2 仏性、如来蔵思想 みんな仏になれる」、「6-8 空海の教え」で書いた。よかったら、読んでね!)
こうなると、話は一変する。
言い換えれば、如来と菩薩の区別が難しくなる。
荒っぽく言えば、
宇宙そのものの真理を体現するのが大日如来、
その働き・機能が、菩薩となる。
例えば、人々に寄り添う形で現れれば観音菩薩(慈悲の働き)となり、智慧として現れれば文殊菩薩(智慧の働き)となる。
こう考えてみると、如来と菩薩の違いは「別の存在」ではなく、
真理として存在するときは「如来」と呼ばれ、
人に「働きかける」ときは菩薩と呼ばれる。
このように、仏の世界は急激に立体的になる。
仏像の並びも、それぞれのはたらきの展開図のようだ。
その「展開図」は、密教の曼荼羅として顕れる。
大日如来を中心に据え、その周囲に如来や菩薩、さらに明王[2]までもが配置された世界。
中心と周辺という区別はあっても、
すべてが一つの悟りから展開した、
それぞれの働きとして並んでいる。
ちょっと難しいな〜〜
曼荼羅は、一つの真理がどのように世界に現れ、どのように人に届くかを示した、仏世界そのもののようだ!そこに、自分自身のあり方が描かれているのかもしれない。
曼荼羅についてこれまで、偉い先生から聞いてきたが、色々な解釈、色々な世界観がある。いざ自分で書くとなると、書くのは怖いな〜。話の流れで上には少し書いてしまったが、、、
[1] 「菩薩」と呼ばれる存在には二種類ある。観音や地蔵のように、信仰の対象として神格化された菩薩と、歴史上実在した「空」の思想を確立した龍樹などだ。功績の大きさゆえに、後世から菩薩と讃えられたのであろう。
[2] 密教で大日如来の命を受けて、怒りの姿で人々の煩悩を打ち砕き、仏の教えに従わせて救う役割をもつ尊格のことです。怖い姿で表される。



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