このブログの関心は、なんと言っても仏教だ。
さらに、仏教と科学技術について考えてみた。
仏教は、詳細な心理分析を行い、因果関係(縁起)を説き、非常に論理的な宗教だ。
さらに、その内容を自分で確認することを求める。
しかし、その論理性は科学技術には向かわなかった。
仏教が持つ論理的性格から、その自然科学観を見てみよう。
仏教における「法」
仏教で「法(ダルマ)」と言うとき、それは、「自然法則」、「宇宙のルール」、「客観的真理」を示すのではない。
むしろ、「そうなっているあり方」、「経験される現象の構造」だ。
たとえば、仏教で言われる「生老病死」は「神の罰」でも「自然法則の結果」でもない。
条件がそろえば、起こる「縁起」、場合によっては「業」という法則なのだ。
この法則を「外界の客観構造」としてではなく、「経験による心の内部構造」として捉えるのだ。
縁起は法則ではあるが、「自然法則」ではない
よく言われるように、縁起は、
これがあるとき、これがある
これが生じるとき、これが生じる
法則ではあるが、ニュートンの運動法則のような
「数式で表せる法則」ではない。
再現性はあるにしても、心の働き、感情の生起、苦の発生条件を説明する現象論なのだ。
無明 → 行 → 識 → 名色 → … → 苦
と言われる十二縁起も、あくまで心理学なのだ。

縁起の法則(十二縁起:苦の起源)(by Nano Banana Ai)
別の言い方をしてみると、
仏教は「なぜ世界があるか」を問わない。
釈迦は、一貫して、「世界の始まり」、「宇宙の創造」、「永遠か有限か」を答えない(無記)。
理由は、きっと、仏教にとってはどうでもいいこと、関心のないことなのだ。
そんなことを知っても、苦が減らないからだ。
「自然」は支配対象ではなく、修行の場
仏教では、自然は支配するべき(制御するべき)対象ではない。
観察すべき現象だ。
たとえば、仏教では、呼吸、身体感覚、心の動きなどいろいろなものを瞑想で観察する。
これは明らかに、「自然を征服する」ではなく、「自然の一部として自分を観る」ことだ。
西欧の自然科学のように、自然を対象として観察、支配する態度ではないのだ。
仏教では、執着を観て、そこから解き放たれるために、修行する。
中観派の徹底:法則すら実体視しない
最後に、さらに厄介な話をしよう。
中観派の祖師、龍樹は
「因果関係も固定した実体ではない」
法則はもはや、固定されたものではないと言う。
そんなものに、執着してはダメなのだと!
言葉では、真理には到達できないのだ(あ〜〜〜、また出た!)
ここでは、自然法則はもう真理ではなく、単なる「便宜的説明」だ。
ここまでくれば、もう現代科学が求める「再現性」も何もない。
仏教から論理で作る自然科学は生まれない。
ちょっと困るけど、納得できる。
でも、仏教が手に入れたものは、「心の因果を解く」、「苦の構造を解く」、「自己の錯覚を解く」手段なのだろう。
仏教は「自然法則」を知らなかったのではなく、知ろうとしなかった。
もっと別の真理を、別の手段で追い求めたのだろう。



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