仏教とインド哲学

仏教とインド哲学

15-8-5-1唯識の挑戦 認識構造から無我を考える

中観派によって、「法」も「種子」も、さらには仏教を説明するための理論そのものも空であると論じられた。その徹底した実体批判は見事!ただ、同時に、疑問も生まれた。もしすべてが空なら、無我なのに、なぜ「私」が続いて見えるのか。仏教は無我を説く。し...
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15-8-4-2中観の革命(2) 経量部への批判

ナーガールジュナの批判は、経量部にも向けられる。経量部は、実在するのは現在の刹那だけと考えた。そして人格や因果を、刹那の連続として説明しようとした。これは「無常」の考えにかなり忠実な立場に見える。しかしナーガールジュナは、ここにも問題を見る...
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15-8-4-1 中観の革命(1)法まで空にする

ここまで見てきたように、部派仏教は「無我」を守りながら、輪廻や因果を説明しようと努力してきた。説一切有部は「法」の実在を認めた。経量部は「種子」と「流れ」を考えた。どちらも無我を守ろうとした真剣な試みだった(と思う)。それに対して極めて鋭い...
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15-8-3 部派仏教の挑戦

無我を理論化するブッダは「無我」を説いた。しかし前章で見たように、その教えには難しい問題があった。固定的な自己がないなら、なぜ業の結果が未来に現れるのかなぜ人格は連続しているように見えるのかなぜ輪廻が成立するのかを説明しなければならない。初...
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15-8-2 無我が抱えた問題

輪廻・業・悟りをどう説明するかブッダは、人間の中に永遠不変の自己は存在しないと説いた。この無我の教えには、大きな疑問がつきまとった。むしろ、無我を認めれば認めるほど、新しい問題が次々に現れてくる。少し考えれば、誰でも思いつく疑問だ。固定した...