ナーガールジュナの批判は、経量部にも向けられる。
経量部は、実在するのは現在の刹那だけと考えた。
そして人格や因果を、刹那の連続として説明しようとした。
これは「無常」の考えにかなり忠実な立場に見える。
しかしナーガールジュナは、ここにも問題を見る。
彼によれば、「刹那」という単位そのものが実体化だ。
刹那が成立するためには、「生じ」、「存在し」、「滅する」という三つの段階が必要になる。
しかし、
「生じる前にはまだ存在しない」
「存在しているなら、すでに生起は終わっている」
「滅した後には、もはや存在しない」
すると、
「生起そのもの」はどこにあるのか」
いや〜、なかなか強烈である。正直なところ、少し屁理屈にも聞こえる。ナーガールジュナは、「刹那」という考え方にも実体化の危険を感じたのだろう。
種子への批判
経量部が考え出した「種子」に対しても同じだった。
種子とは、「過去の行為が残す潜在力」であり、業の継続性が説明できる。
しかしナーガールジュナは問う。
「その種子とは何なのか」
「どこに存在するのか」
「それは永続するのか」
もし
「実在すると言うなら、結局それも新しい実体になってしまうのではないか」
確かに、その通りである。私たちは「種子」という言葉を聞くと、何となく分かった気になる。しかし改めて考えると、その種子とは何なのかを説明するのは意外に難しい。よく起こることだ!
ナーガールジュナは、
法、
三世実有、
刹那、
種子、
さらには因果理解そのものまで徹底的に吟味した。
そのどれにも固定的自性は認められないと結論した。
これが「空」である。
注意が必要だ。中観は、虚無主義ではない。
「何も存在しない」と言っているわけではない。
「あらゆるものは関係性の中で成立している」と言っているだけだ。
固定的な本質は存在しない。しかし関係性の世界は成立している。だから空は虚無主義ではない。むしろ縁起を徹底した結果として現れた思想なのだ。
中観の偉大さと難しさ
ナーガールジュナはなぜここまで徹底したのだろうか。
仏教教理が次第に哲学化される中で、「法」や「種子」が新しい実体として扱われ始めたことに強い危機感を抱いていたのではないだろうか。
もしそうなら、ナーガールジュナの「空」は、世界を否定するためではなく、ブッダの無我思想を守るための徹底した実体批判だったかもしれない。知らんけど!
ただし、その結果として中観の議論は非常に高度になり、「空」そのものが理解しにくくなったようにも思える。
種智院大学のM先生は、「やっぱり説一切有部のように、何か実在がある方が分かりやすいよね」とよく言われていた。私もその気持ちはよく分かる。
しかしナーガールジュナは、それを許さなかった。
どこまでも無我を徹底したのである。
「経験そのものはどう成立するのか」
「業や輪廻はどのように継続するのか」
やはり問題は残る!
それに答えようとしたのが、次に登場する唯識派である。
唯識派はいう。
「それでは、認識の観点から考えてみよう!」
次回から、唯識派の認識論だ!



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