輪廻・業・悟りをどう説明するか
ブッダは、人間の中に永遠不変の自己は存在しないと説いた。
この無我の教えには、大きな疑問がつきまとった。
むしろ、無我を認めれば認めるほど、新しい問題が次々に現れてくる。
少し考えれば、誰でも思いつく疑問だ。
- 固定した自己がないなら、何が輪廻するのか。
- 悪事をした者と、その結果を受ける者が別なら、因果応報は成立するのか。
- 無我なら、誰が修行し、誰が悟るのか。
「我がないのに、人生の連続性をどう説明するのか」
これは六派哲学からの批判というだけではなく、仏教自身が答えなければならない根本問題だった。
もし説明できなければ、
「無我を言った瞬間に、輪廻も業も修行も崩れてしまう」
ことになる。
実際、この問題が後の仏教思想を大きく動かしていくことになる。
灯火の比喩
初期仏教は、この問題に対して、まず「因果の流れ」という考え方で説明した。
よく知られているのが灯火の比喩だ。
一本のロウソクの火から、別のロウソクに火を移す。
すると、最初の火と次の火は同一ではない。前の火が原因となって次の火が生じている。
人格の連続も同じだと考えた。
昨日の私と今日の私は完全に同一ではない。
身体も変化し、感情も変化し、考え方も変化する。
しかし、まったく別人でもない。
そこには因果によってつながった連続性がある。
輪廻もまた、このような因果の連続として理解された。
つまり、
「同じものが移動するわけではない」
しかし、
「因果の流れは続いている」
という説明である。
なるほど!
正直なところ、
「それで本当に説明になっているのか」
という気持ちも残る。
哲学者たちが納得しなかったのも無理はない。
中有の考え
インドでは輪廻転生の考えが生きている。
その中で、死から次の生までをどうつなぐか、という問題がある。
死んだ瞬間に次の生命が始まるのか。
それとも、その間に何らかの状態が存在するのか。
もっともな疑問だ!
そこで生まれたのが、中有(ちゅうう)[1]という考え方だ。
中有とは、死と次の生との間に存在する中間的状態だ。
『倶舎論』などで体系化される。
その考えでは、人は死後すぐに次の生へ移るのではなく、一時的に中有の状態を経てから新しい生命へとつながっていく。
一般には最長四十九日存在すると考えられた。
仏教は、この中有という考えによって、
「完全な断絶ではない」
と言おうとした。
言い換えれば、
無我を維持しながら、輪廻の連続性を説明しようとした最初の試みの一つだった。
しかし問題は残る
この考えにも難しい問題がある。
誰でも思うだろう。
「それって霊魂ではないの?」
という疑問である。
もし中有が独立した存在として移動するなら、それはアートマンと何が違うのか。
もしそうでないなら、何が次の生へつながるのか。
結局のところ、
無我と輪廻を両立させる問題は、まだ解決されていなかった。
この難問に本格的に取り組むことになるのが、後の部派仏教である。
説一切有部や経量部は、
「無我を守りながら、どうやって因果や輪廻を説明するか」
という課題に真正面から挑戦することになる。
ここから議論は、かなり哲学的な世界へ入っていく。
部派仏教の得意分野だ!
[1] 中有とガンダルヴァバ。ガンダルヴァバは古代インドの半神半人の精霊。仏教に入ると天竜八部衆の一人とされ、香のみを食べ、帝釈天に支え技楽を奏でる。ときには中有の意味にも用いられる。



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