15-7-4 仏教との論争:因果論、空への批判

六派と仏教_因果・空 仏教とインド哲学
六派と仏教_因果・空

1.因果論争

「原因と結果は同じなのか、それとも違うのか」

一見すると単純な問いだが、すぐには分からない!
インド哲学では非常に重要な問題だった。

仏教は縁起を中心思想としている。すべてのものは原因と条件によって生じると考える。
そのため、因果関係がどのように成立するかは避けて通れない。

サーンキヤ学派は、
「存在しないものは生じることができない」
という。
例えば粘土から壺が作られる場合、壺という結果は最初から粘土の中に潜在的に存在していると考える。
結果は原因の中に既に含まれていて、生成とは単にそれが顕在化することにすぎない。
因中有果論という。
彼らにとって、全く存在しなかったものが突然現れるという方が不合理だったのだ。

仏教側はこれに疑問を投げかける。
「結果が最初から存在しているなら、本当の意味での生成や変化は存在しない」
「粘土の中に既に壺が存在しているなら、「壺が生じた」という表現自体がおかしい」
変化や創発を説明するために因果を持ち出したはずなのに、結果が最初から存在しているなら変化が消えてしまうのだ(因中無果論)。

この「結果は原因と全く別である」という立場にも問題があるようだ。
「原因と結果が完全に無関係なら、米の種から稲が育つ理由が説明できない」
「種から石が生まれてもよいことになる」
つまり結果が原因と全く別であれば、因果関係そのものが成立しなくなるのである。

なんだか、聞いていると、屁理屈のような印象を持ってしまうが、、、

そこで仏教は、
「原因と結果は同一でもなく、全く別異でもない」
という中道的立場を取った(仏教らしい)。

結果は原因から生じるが、原因そのものではない。
しかし全く無関係なものでもない。
両者は縁起によって連続しているのである。
この問題は龍樹によってさらに徹底的に分析される。

龍樹は『中論』の中で、
「自己から生じることもできず、他から生じることもできず、両方からも生じず、無因からも生じない」
という有名な議論を展開ししている。
彼は因果を否定したのではなく、因果を固定的実体の関係として理解することの矛盾を示した!

こうして因果論争は、単なる自然現象の説明を超えて、
「変化とは何か」、「存在とは何か」
という存在論そのものへと発展していった。

授業でも聞いたが、これもかなり難解!

縁起か? 繋がりのネットワーク(バラバシ・アルバートモデル)(https://mas.kke.co.jp/model/albert_model/


2.空への批判

中観派の「空」の思想は、仏教思想の中でも最も独創的なものの一つだった。
同時に、インド哲学界で最も激しい批判を受けた思想でもあった。
正統派哲学者たちは、中観派の議論を聞くと強い違和感を覚えた(はず)。

中観派は、
「すべてのものは空である」
と言う。
しかし、それでは世界のあらゆるものが否定されてしまうのではないか。
因果も認識も道徳も修行も成立しなくなるのではないか。

こうした疑問から、
「もしすべてが空なら、その“空”という主張自体も空ではないか」
という有名な批判が生まれた。
これは単なる揚げ足取りではない。

いや、揚げ足取りのような気もするが!

「あらゆる主張が空であるなら、中観派自身の理論もまた成立しないのではないか」
という真剣な批判だったのである。

ニヤーヤ学派などは、
「空は結局のところ虚無論ではないのか」
とも批判した。
世界の実在性を否定すれば、真理も知識も道徳も根拠を失ってしまうように見えたのであろう。

これに対して中観派は繰り返し、
「空は無ではない」
と説明した。
「空とは存在を否定する思想ではない」
「固定的で独立した自性の存在を否定する思想なのだ」

高野山大学でもよく聞いた車の例がある。
車という実体が単独で存在しているわけではない。
車輪、車体、エンジン、ダイヤなど構成されている。
その意味で空なのである。

龍樹は有名な言葉で、
「縁起であるものを空と呼ぶ」
と述べている。

「空」と「縁起」は、同じ事実を別の角度から表現したものである。
固定的実体を認めれば、変化も因果も説明できなくなり、中観派から見ると、実体を認める立場こそが問題だ、となる。

こうして論争は、
「実在を認めなければ世界は説明できない」
という正統派と、
「実在を認めるからこそ世界は説明できなくなる」
という中観派との対立へ発展していった。

この議論は宗教論争でというよりは、「存在とは何か」、「言葉とは何か」、「真理とは何か」という哲学の根本問題に関わり、インド哲学史上もっとも高度な論争の一つといわれている。


インドでの哲学論争を、いくつかの課題に分けて無茶苦茶簡単に概観してみた。

実際には、存在論・認識論・論理学・言語論・因果論が全部絡み合い、一つの議論を理解しようとすると別の議論も理解しなければならない。まるで巨大な迷路である。

読んでいると、「なるほど!」と思うこともあれば、「それは屁理屈では?」と思うこともある。
彼らは決して暇つぶしで議論していたわけではない。
「私は誰なのか」
「世界とは何なのか」
「なぜ物事は起こるのか」
「人は何を知ることができるのか」
という、人間にとって最も根本的な問いに真剣に取り組んでいたのだ。

とはいえ、私の頭はもう十分にお腹いっぱいだ。
細かな詰めや反論の反論の反論については、学者先生方にお任せすることにしよう!

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