15−5 六派哲学 一枚岩ではない

六派哲学は一枚板ではない 仏教とインド哲学
六派哲学は一枚板ではない

「バラモン教からヒンドゥー教へ」という大きな流れの中では、「六派哲学」と言う思想も一つの支流だ。

ウパニシャッドによって生まれた新しい内面を求める哲学的問いに答えようとする動きと、沙門運動との知的競争が重なったことにより、バラモン伝統の中でも思想の変化が起こり、六派哲学が形成されていった。六派哲学は単なる「仏教への反論」ではなく、インド思想全体が成熟していく過程で生まれた豊かな知的営みとして考えることができそうだ。

六派哲学は、「ヴェーダの権威を認める」という意味でまとめて正統派と呼ばれるが、それぞれが同じことを考えていたわけではなく、各派に独自の路線があった。当然、成立時期も異なる[1]

「世界とは何か」、
「人間とは何か」、
「解脱とは何か」、
「真理にはどうすれば到達できるのか」

などについて、それぞれの学派が独自の考えを出し、互いに議論を重ねていった。六派哲学は、仏教との論争だけでなく、派閥内、派閥間でも多くの議論があったようだ。ともかく、バラモン教からヒンドゥー教への変遷を見る上で、六派哲学も一枚岩ではなかった。

各学派の基本的性格

六派哲学の思想は、それぞれが何百年にもわたって発展した壮大な思想だ。このブログで書くには、手強すぎる(私では、説明できない。すいません)。

ここでは、「インド思想の地図」の中で、それぞれがどのような役割を果たしたのかを眺めてみよう。

間違いがあったら、許してください。できたら指摘してください。

まず、「六派哲学」の概要、思想をどこかの解説書に書いてある程度、いや、それ以下の程度でまとめる。

  • ミーマーンサー学派

ヴェーダの祭式や儀礼の意義を理論的に説明する学派である。「無神論的」な性格を持ち、創造神(イーシュヴァラ)の存在を前提としない。ヴェーダは永遠で誤りがなく、その言葉自体に力があると考えた。祭式を正しく行うことが宇宙秩序を維持し、人間に利益をもたらすと説いた。

  • サーンキヤ学派

精神(プルシャ)と物質(プラクリティ)という二つの根本原理から世界を説明する二元論哲学である。人間の苦しみは、この二つを混同することから生じると考え、解脱とは、精神が本来物質とは別の存在であると悟ることであるとした。この派も古典サーンキヤなどでは神を必要としない体系のようだ。

  • ヨーガ学派

サーンキヤ学派の理論を実践面から発展させた学派である。ただ、サーンキヤの二元論に、特別なプルシャとしての神(イーシュヴァラ)を加えた点が、サーンキヤとは異なる。『ヨーガ・スートラ』にまとめられ、瞑想や精神統一を通じて心の働きを静め、解脱に至る道を説く。今日世界的に知られるヨーガの思想的基盤となっている。

  • ニヤーヤ学派

認識論と論理学を専門的に発展させた学派である。人間はどのように正しい知識を得るのか、推論とは何か、証明とは何かを詳細に分析した。後のインド哲学全体の論理的基盤を築いた学派として重要である。議論に勝つために論理を磨いたのだ。後にヴァイシェーシカ学派と融合して「ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ」と呼ばれるようになった。

  • ヴァイシェーシカ学派

世界を構成する基本要素を分析した自然哲学・存在論の学派である。物質は原子から成ると考え、6つ(後に7つ)のカテゴリー、すなはち、実体(ドラヴィヤ)・性質(グナ)・運動(カルマ)・普遍(サーマーニヤ)・特殊(ヴィシェーシャ)・内属(サマヴァーヤ)によって世界を説明した。インド版の自然科学や形而上学とも言える思想を展開した。

  • ヴェーダーンタ学派

ウパニシャッド哲学を継承し、宇宙の根源であるブラフマンと個人の本質であるアートマンの関係を探究した学派である。後にシャンカラによる不二一元論が大きな影響力を持ち、ヒンドゥー思想の中心的潮流となった。

伝統的に六派哲学は3つのペアとして語られることが多いようだ。授業でもお聞きした。

  • ニヤーヤとヴァイシェーシカ(論理学と存在論)
  • サーンキヤとヨーガ(理論と実践)
  • ミーマーンサーとヴェーダーンタ(前期・後期のミーマーンサー=祭式解釈と真理探究)
シャンカラと弟子たち
シャンカラと弟子たち

シャンカラと弟子たち(https://ja.wikipedia.org/wiki/シャンカラ)


その中でも、最も大きな影響、特にヒンドゥー教の成立について影響を与えたのがヴェーダーンタあり、インド正統派哲学の中心と考えられている。

ヴェーダーンタとは、「ヴェーダの終わり」という意味で、ウパニシャッドの思想を受け継ぎ、
「ブラフマンとは何か。」、
「アートマンとは何か。」、
「解脱とは何か。」
こうした問いを深く考えたのだ。

その結果、
「究極の自己であるアートマンは、宇宙の根源であるブラフマンと本質的に一つである」という「梵我一如」の思想を発展させた。
とはいえ、派閥内にも異なる考えがあったようだ。

シャンカラは「すべてはブラフマンそのものである」と考え、
ラーマーヌジャは「世界も自己も実在するが神と不可分である」と考え、
マドヴァは「神と人間は永遠に別である」と考えた。

このようにヴェーダーンタ学派の内部にもさまざまな立場があるが、大きく見れば、「真の自己(アートマン)は存在する」という考え方が、その中心にある。

この「真の自己は存在する」という考えこそが、仏教と最も鋭く対立する点なのだ。

仏教はこの伝統的な考え方に、真っ向から反対の立場をとったのだ!

仏教は、「私」と呼べるような永遠不変の実体は存在しないと説き、「無我」を主張した。

これは、人間とは何かをめぐる、インド思想最大の論争なのだ。

次回からは、論争の歴史を見ていこう!


[1] 諸説あるが、ミーマーンサー:紀元前4〜2世紀、サーンキヤ:紀元前4〜2世紀(思想はさらに古い)、ヨーガ:紀元前2世紀〜紀元2世紀、ニヤーヤ:紀元前2世紀〜紀元2世紀、ヴァイシェーシカ:紀元前2世紀頃、ヴェーダーンタ:紀元前後〜2世紀(体系化は8世紀以降)

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