無我を理論化する
ブッダは「無我」を説いた。
しかし前章で見たように、その教えには難しい問題があった。
固定的な自己がないなら、
- なぜ業の結果が未来に現れるのか
- なぜ人格は連続しているように見えるのか
- なぜ輪廻が成立するのか
を説明しなければならない。
初期仏教では、灯火の比喩などによって「因果の流れ」として説明したが、哲学的には弱かった。
そこで部派仏教の時代になると、
「無我を守りながら因果をどう説明するか」
という課題に対して、本格的な理論化が始まる。
その代表が、説一切有部と経量部である。
両者とも無我を認めているが、その説明は大きく異なっていた。
1.説一切有部 法の実在による因果の説明
説一切有部は、部派仏教の中でも特に高度な哲学体系を発展させた学派だ。
彼らは、因果や輪廻を説明するためには、何らかの実在的基盤が必要だと考えた。
そこで登場するのが「法(ダルマ)」である。
「法(ダルマ)」という言葉は仏教でさまざまな意味を持つが、ここでは世界を構成する究極的要素と考えてよい。
ブッダは、人間を五蘊の集合として説明した。
しかし説一切有部は、さらに分析を進め、人間や世界を構成する最小単位として「法」を考えた。
人間そのものは仮の存在である。しかし、その構成要素である法は実在すると考えたのである。
少し乱暴に言えば、元素や原子のようなものかもしれない。
現代科学の原子とは全く違うが、「これ以上分解できない基本単位」という意味では似ている。
さらに彼らは有名な「三世実有説」を唱えた。
過去・現在・未来の「法」は、すべて存在すると考えたのである。
もし過去が完全に消滅しているなら、過去の行為が未来に結果を生むことを説明できない。
そこで説一切有部は、
「過去の法も何らかの形で存在している」
と考えた。
こうして彼らは、
法の実在性を強めることで、因果と輪廻を説明しようとした。
説一切有部は法を実在と考えたが、永遠不変の自己が存在するとは考えていない。
つまり、
「法は実在するが、人間という固定的自己は存在しない」
という立場だった。何とか無我を守ろうとしたのである。
仏教としては、かなり頑張ったと思う。
一方で、「法」を実在としたことで、別の実体論へ近づいてしまったようにも見える。
そのため、後に中観派から厳しい批判を受ける。わかる気がする。
2.経量部 流れと種子による因果の説明
これに対して、
「説一切有部は実在論に傾きすぎている」
と批判した学派が現れた。それが経量部である。
経量部という名前は、
「アビダルマの理論体系よりも経典を重視する」
という意味を持つ。
彼らは、説一切有部の「三世実有説」を認めなかった。
実在するのは現在だけだと考えた。
過去はすでに消滅している。
未来はまだ存在していない。
存在するのは現在の一瞬だけだ。
仏教の無常観をより徹底したものだろう。
いわゆる「刹那滅」の考え方に近い。
すべてのものは瞬間ごとに生滅している。
人格もまた固定的な存在ではなく、絶えず流れ続けるプロセスなのだ。
よく使われる例が映画のフィルムだ。
フィルムの一コマ一コマは別々の静止画だ。しかし連続して映写されると、私たちは一つの動きとして認識する。
人格も同じで、実際には刹那ごとの連続なのだと考えた。
しかし、ここでも問題が生じる。
「過去が消滅しているなら、どうして過去の行為が未来に結果をもたらすのだ」
そこで経量部は、「種子(しゅうじ・bīja)」という考えを導入する。
行為そのものは消滅する。
しかし、その影響力は潜在的な力として残る。
怒りの行為をすれば、「怒りの種子」が残る。
善い行いをすれば、「善い種子」が残る。
そして条件が整うと、その種子が結果として現れる、と考えた。
こうして経量部は、
固定的な実体を認めることなく、因果の継続性を説明しようとした。
二つの立場の違い
ここまで見てくると、両者の違いがよく分かる。
説一切有部は、
「法という実在を認めることで因果を守ろう」
経量部は、
「実在を増やさず、流れと種子で因果を説明しよう」
前者は実在論に近づき、
後者はプロセス論に近づいた
とも言える。
どちらも無我を守ろうとしたのだ。
しかし、その努力は新たな問題も生み出した。
法は本当に実在なのか。
種子とは何なのか。
新しい実体ではないのか。
こうした疑問に対して、次に登場するナーガールジュナは、極めて鋭い批判を加えることになる。



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