15-7-3 仏教との論争:刹那滅論、認識論、言語論

六派と仏教_刹那滅 仏教とインド哲学
六派と仏教_刹那滅

1.刹那滅論

仏教は、あらゆる存在は一瞬ごとに生じては滅していると考えた。
これが刹那滅論である。

私たちは同じ人間や同じ物体が継続して存在しているように感じる。しかし実際には、ろうそくの炎が絶えず燃料を消費しながら燃え続けているように、存在は絶えず更新されているというのである。
この考え方は無我や縁起とも深く結びついている。

ニヤーヤ学派はこれを強く批判した。
もしすべてが毎瞬ごとに消滅しているなら、
「記憶はどう成立するのか」、
「原因と結果はどう結びつくのか」、
「修行による人格形成はどう説明できるのか」
「ある瞬間の人間と次の瞬間の人間が別存在なら、努力した者と結果を受ける者が一致しなくなってしまう」

サーンキヤ学派は別の角度から批判する。
「変化を認識するためには、変化しない基準が必要ではないか」
「川の流れを見て「流れている」と言えるのは、それを観察する主体が安定しているからではないか」
「すべてが流動しているなら、「変化している」という認識自体が成立しなくなる」

仏教側は、当然反論する。
「連続する因果関係によって変化も認識も説明できる」
と主張した。

刹那滅論は単なる時間論ではなく、存在とは何かという根本問題だ。

仏教側は、固定主体ではなく、認識流そのものの連続性で説明しようとしたのだが、、、。六派哲学の方が、もっとものような気がしてくるのだが、、、(すいません)。

映画の一コマは一瞬の静止画像だが、続けて映写すると動いているように見える。


2.認識論

「人はどのようにして知るのか」
この問題は後期インド哲学の最大のテーマの一つとなった。

仏教のディグナーガとダルマキールティは、人間の認識の仕組みを極めて精密に分析した。
「私たちは壺を見たとき、壺を認識した」
と考える。
「しかし本当に認識しているのは壺そのものなのだろうか」
「実際には目に入る色や形などの感覚情報をもとに、心が「壺」という概念を構成しているだけではないのか」
仏教認識論は、このような認識作用そのものを分析対象とした。

一方、ニヤーヤ学派は、認識の対象である外界そのものの実在性を重視した。
「認識が正しいと言えるのは、認識対象が実在しているからである」
「もし外界実在を疑うなら、真理も誤謬も区別できなくなるではないか」

こうして、
「認識の構造」を重視する仏教と、
「認識対象の実在」を重視するニヤーヤ学派との間で
高度な認識論論争が展開された。

この分野の議論は、現代の認識論や科学哲学にも通じるほどだ。


3.言語論

「言葉は何を指しているのか」
これは認識論と並ぶ重要な論争だ。

例えば私たちは「牛」という言葉を使う。
世界には一頭として同じ牛は存在しない。
それにもかかわらず、なぜ私たちは複数の個体をまとめて「牛」と呼べるのだろうか。

ヴァイシェーシカに由来する立場をニヤーヤも共有して、
その理由として「牛性」という普遍概念の実在を認めた。
「個々の牛は異なっていても、共通の本質が存在するから同じ名前で呼べる」
というのである。

これに対して仏教側は普遍実在を否定した。
実在するのは常に個別的存在だけであり、「牛性」などという普遍は存在しない。
そこでディグナーガ以後の仏教は、有名な排除理論(アポーハ説)を提唱する。
「牛」という言葉は牛という本質を指しているのではない。
「馬でも人間でも犬でもないもの」
「非牛を排除した結果として成立している」
にすぎない。

つまり言葉は本質を直接表現しているのではなく、差異のネットワークの中で成立しているとする。

他にもバルトリハリに代表される文法学派(ヴィヤーカラナ学派)の「スポータ説」というのもあるそうで、言語論は二項対立だけでは語れないようだ。

これら考え方は非常に先進的であり、現代の構造主義言語学や記号論との類似がしばしば指摘されているそうだ。知らんけど!

授業でも聞いたが、なんだか騙されたような気分だ!まだよく分からん!

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