なぜ「我」が生まれるのか
唯識派の関心は、さらに、
「なぜ私たちは実体を見てしまうのか」
もカバーする。
たどり着いたのが、「三性説(さんしょうせつ)」だ。
三性説とは、私たちが世界をどのように認識しているかを説明する理論である。
三つの段階がある。
1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)
2.依他起性(えたきしょう)
3.円成実性(えんじょうじっしょう)
1.遍計所執性(妄想された世界)― 実体を見てしまう世界
私たちは、「これは絶対的な私だ」、「これは固定的な物だ」と思い込む。
それは認識が作り出した錯覚である。
私たちは本来流動的なものを固定化して捉えてしまう。
無我との関係で言えば、「我」が存在すると信じ込んでいる状態である。
2.依他起性(因縁で生じる流れ)― 縁起としての世界
しかし実際には、世界も人格も因縁によって成立している。
これが依他起性である。
依他起とは、「他に依って起こる」という意味であり、認識、感情、世界経験はすべてが縁起で成立すると考える。阿頼耶識や種子の働きも、この依他起性の世界で説明される。
ここでは固定的な自己は存在しない。あるのは因果の流れだけである。
3.円成実性(完成された真実)― 空として見る世界
さらに悟りの視点に立つと、遍計所執性で見ていた実体は存在しないことが分かる。
世界は縁起によって成立しており、そこに固定的な自己も固定的な対象も存在しない。
これが円成実性である。
唯識派は、
ここで初めて空が本当に理解されると考えた。
唯識が目指したもの
よく知られている例がある。
暗闇の中でロープを見て、
「蛇だ!」
と思い込む。これは遍計所執性である。
実際にはロープであり、
条件によってそう見えていただけだと理解する。
これが依他起性である。
さらに、
最初から蛇という実体は存在していなかったと理解する。
これが円成実性である。
唯識派は、このようにして
「なぜ私たちは実体を見てしまうのか」
を説明しようとしたのだ。
唯識の位置づけ
ここまで見てくると、
インド仏教の流れが少し見えてくる。
説一切有部は、
因果や輪廻を守ろうとして、
法の実在を強く認めた。
しかし、その方向へ進みすぎると、
実体論へ近づき、
アートマン思想へ接近する危険がある。
中観派は、そうした実体化を徹底的に批判した。
しかし、その方向へ進みすぎると、
今度は虚無主義と誤解される危険がある。
唯識派は、
この二つの極端の間で、
認識構造の分析によって無我を説明しようとしたのである。
実体化するとアートマンへ近づく。
逆に「空」化しすぎると虚無主義へ近づく。
唯識派は、その両方を避けながら、
「なぜ人は自己を実体視してしまうのか」
を解明しようとした。
そう考えると、
唯識とは単なる難しい認識論ではなく、
無我を守りながら経験世界を説明しようとした壮大な挑戦だったのかもしれない。
終わりに
インド仏教では、「無我」は単なる理論ではない。
ブッダが始めた「執着を減らし、苦しみを終わらせる」ための実践知だ。
最終的には、「自己は存在するか?」という形而上学的疑問に答えるより、
宗教として「自己への執着が生み出す苦をどうして消すのか」の方が重要だったはずだ。
仏教思想は単なる哲学ゲームではない、宗教としても重みを持つのだろう。



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