15-8-1 無我:最大の論争、その始まり

無我論争:その始まり 仏教とインド哲学
無我論争:その始まり

これまで、インドでの六派哲学と仏教の間での、「難しい」論争を独断的に概観してみた。
間違っている部分もあるかもしれないが、なんとなく雰囲気はわかってもらえたのではないだろうか?

ちょっとだけ、詳しく、「無我」の論争について、以下に書くことにする。

仏教の無我の思想は、時代とともに変化していく。前にも書いたかもしれないが、この変化(あえて発展とは言わない)の様子を書きたかった。
この「仏教とインド哲学」のカテゴリーの最大の目的だ。
何も知らなかった私は、そこに辿り着く前に、長々とインド哲学の概要を書いてしまった(まだ、何もわかっていないが、、、)


「無我」は釈迦の時代から、仏教が言ってきた重要な概念で、同時に六派哲学によって最も攻撃された概念の一つだろう。この「無我」をどのように哲学的に説明するかは、仏教にとってかなり大きな問題だったに違いない。

仏教教理の理解にとっても、意味がありそうな気がするので、少し詳しく述べてみる。
すでにブログで述べた話と重複する部分もあるが、1つの流れとして、「無我」の論理の発展、仏教内部における発展を見てみよう。

コラム:「無我」と「非我」
最近、「無我」ではなく「非我」を使うべきではないか、という議論を時々耳にする。仏教でよく使われる「無我」は、サンスクリット語のアナートマン(anātman)の漢訳で、「アートマン(永遠不変の自己)ではない」という意味だ。近年の仏教学では、その原意を重視して「非我」と訳すようだ。
使い分けるなら、「非我」はアートマン批判のための分析的な表現、「無我」はその帰結として示される仏教の立場を表す言葉と考えるといいような気がする。


以前のブログでも書いたが、釈迦は人間そのものを否定したのではない。
色・受・想・行・識という五蘊は存在するが、それらの中にバラモン教がいうような永遠不変の実体としての自己(アートマン)はないと言ったのだ。
「何も存在しない」という意味ではなく、「それを自己と執着してはならない」という教えだ。
こうした理由から、「非我」の方が原意に近いと考えられている。伝統的な「無我」という表現も、その意味を把握している限り、誤りではない。


無我論争のはじまり

無我は、ブッダの時代から仏教の根幹にある教えである。同時に、インド思想界から最も厳しい批判を受け続けた教えでもあった。
なぜなら、多くのインド哲学が「真の自己とは何か」を探究していたのに対し、仏教は「自己とは何か」という問いそのものを問い直したからだ。

実は、ブッダが無我を説いた瞬間に、すべての問題が解決したわけではなかった。
むしろ、
「無我なのに、なぜ私は私だと感じるのか」
「無我なのに、なぜ業の結果を受けるのか」
「無我なのに、なぜ輪廻するのか」
という難問が次々に現れたのである。

そのため仏教は、その後二千年以上にわたって、この問題と格闘することになったようだ。
少し屁理屈のように聞こえる議論も出てくるが、仏教思想がどのように発展していったのかを見る上では面白い題材だ。

ブッダは何を否定したのか

一般には、
「ブッダはアートマンを否定した」
と説明されることが多い。それは間違いではない。

当時のウパニシャッド哲学では、人間の奥には永遠不変の真我(アートマン)が存在し、それが究極的には宇宙原理ブラフマンと一致すると考えられていた(梵我一如)。

ブッダが問題にしたのは、
「自己を固定した実体として捉える見方」
そのものだ。
ブッダは、人間を固定した実体としてではなく、五つの要素の集合として説明した。
色(身体)、受(感覚)、想(表象)、行(意志作用)、識(意識)。
これを五蘊(ごうん)という。

私たちは普段、
「私が考えている」
「私が感じている」
「私が行動している」
と思っている。

しかし詳しく観察してみると、そこにあるのは身体や感覚や思考や意志の働きであって、その背後に独立して存在する「私」という実体は見当たらない。

そこでブッダは、
「これは私ではない」
「これは私のものではない」
「これは私自身ではない」
と繰り返し説いた。

間違ってはいけない。
「人間は存在しない」
と言ったのではない。
身体もある。感情もある。思考もある。意識もある。
それらを支配する永遠不変の主人公(自己)は見出せない、
と考えた。

これが無我の基本的な考え方だ。

コラム:無我の車の例え。
何度も書いたが、高野山大学で聞いた話だが、「車」の例えは分かりやすい。
車は確かに存在する。
しかし、タイヤ、ハンドル、エンジン、車軸などを取り除いていくと、「車」という独立した実体はどこにも見つからない。
車とは、それらの要素が一定の関係で集まった状態に付けられた名前にすぎない。
「私」という言葉も、五蘊の集合に対して便宜的に付けられた呼称にすぎない!

もっとも、この説明を聞くと、「ではタイヤやハンドルは実在するではないか」という疑問も出てくる。
ところがタイヤも分解していけば、ゴムや金属になる。ゴムもさらに分析すれば別の要素になる。では最後に何が残るのか。何か究極の実体が見つかるのだろうか。

この問いは、後に説一切有部、中観派、唯識派へと引き継がれ、仏教哲学の大論争へ発展していくことになる。
つまり、無我論争とは単に「アートマンがあるかないか」を争った議論ではない。
「自己とは何か」
「存在とは何か」
という問題をめぐる、長い思索の歴史の始まりだったのだ。

無我。人とは五蘊(色、受、想、行、識)の集まり。(by Chat GPT)

コメント