15-8-5-1唯識の挑戦 認識構造から無我を考える

唯識の挑戦_認識構造 仏教とインド哲学
唯識の挑戦_認識構造

中観派によって、「法」も「種子」も、さらには仏教を説明するための理論そのものも空であると論じられた。
その徹底した実体批判は見事!

ただ、同時に、疑問も生まれた。

もしすべてが空なら、

  • 無我なのに、なぜ「私」が続いて見えるのか。
    仏教は無我を説く。しかし現実には、「私は昨日も私だった」と感じる。
  • 業はどこに保存されるのか。過去行為は消えたはず。
    では、なぜ後で結果が出るのか?
  • 共通世界はなぜ成立するのか。もしすべて空なら、なぜ皆が同じ机を見ているのか?
    なぜ皆が同じ世界を経験しているのか。

こうした問いに対して、唯識派は考えた。
「では認識そのものを分析してみよう」

唯識派は、中観派の空思想を否定したわけではない。
むしろ空を受け入れた上で、
「人はなぜ実体を見てしまうのか」[1]
を説明しようとしたのである。


阿頼耶識という発想

唯識派が最初に取り組んだ問題は、
「無我なのに、なぜ人格は連続しているように見えるのか」
だった。

仏教は無我を説く。
しかし私たちは、
「昨日の私と今日の私は同じ私だ」
と感じている。
過去の行為が未来に結果をもたらすという業の考えも説明しなければならない。

そこで唯識派は、考えた。
「人間の心には表面意識だけではなく、より深い層がある」
それが有名な阿頼耶識(あらやしき)である。

業や経験によって生じた潜在的傾向が蓄えられる深層意識である。
ここで重要なのは、
阿頼耶識は永遠不変の魂ではない、ということだ。
それはアートマンではない。
阿頼耶識もまた刹那刹那に変化し続ける流れである。

経量部は「種子」が残ると考えた[2]
唯識派はさらに進めて、
その種子が保持される深層構造として阿頼耶識を考えたのである。

つまり、
人格とは固定的実体ではなく、
無数の経験と行為によって形成される流れなのだ。


[1] 少し説明すると、唯識派は「唯識のみ(識しかない)」という立場を取る。そうであるのに、私たちはなぜ余計な”外界の固定実体”という幻を上乗せしてしまう(感じてしまう)のか、を説明しようとしている。

[2] 唯識派は無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟により作られたと言われている。弟である世親は元々経量部にいたが、兄の勧めで唯識に転向した。経量部で種子論に触れていた世親が、その理論を唯識の阿頼耶識に受け継がせたと思われる。知らんけど!

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