お寺に行って、お参りをする。
お願い事をする。
「合格祈願」「家内安全」「病気平癒」「恋愛成就」「金持ちになりますように」など、自分たちの利益が中心だ。
境内に飾られているお札を見ても、ほとんど現世利益だ。
「成仏」「解脱」など、初期に釈迦が目指した目標など、ほとんど見ない。

祈願が書かれた護摩木(https://www.naritasan.or.jp/about/qa/)
私は開運を願う。運さえ開ければ、多少厄があってもなんとかなる。現世利益だ!
ところが、高野山大学に入って、お釈迦さんの頃の仏教を学ぶと、
哲学的であり、しかも修行も厳しい。
釈迦が問題にしたのは、「どうすれば金持ちになれるか」ではない。
「どうすれば苦を超えられるか」であった。
29歳で王子の身分、妻子までも捨て、修行の道に入り、人間存在そのものを見つめた。
若さも財産も地位も、やがて失われる。愛する人とも別れ、最後には自分自身も死ぬ。
この避けられない苦しみを前にして、「この世に執着すること」が苦しみの原因とされた。家族や財産を捨て、生産活動から離れ、托鉢によって生き、厳しい修行を行う。
彼らの目的は、社会的成功ではなく「解脱」であった。
仏教は「無常」「無我」「縁起」など、人間の常識を根本から問い直す思想を発展させた。中観派の「空」思想や唯識派の「認識構造」は、高度な哲学的探究となった。
ただ、在家者は、哲学だけでは生きられない。
どれほど「空」を論じても、子供が病気になった母親は「助けてほしい」と願う。
災害や飢饉の中では、「無我」の理解より今日の食べ物の方が切実である。
死を前にした人は、「存在論」より安心を求める。
つまり宗教としての仏教は、「苦しむ人々をどう救うか」という問題に向き合わざるを得なかった。
人は家族を養い、仕事をし、子供を育て、社会の中で生きなければならない。
「すべての執着を捨てよ」と言っても、現実には難しい、いや無理!
宗教としての仏教は次第に別の方向へ進む。
在家者にとって重要なのは、「今日を生きること」。
――病気にならないこと、災害を避けること、家族が安全であること、商売がうまくいくこと。
当然現実的だ。
仏教は、そうした願いにも応えるようになる。
宗教にとり、民衆の救済が重要だ!
初期仏教、部派仏教ではあまり考えなかった「救済」が次第にクローズアップされ、
大乗仏教では、「救済」が大きなテーマになってくる。
民衆宗教になってきたのだろう。
密教になると、インドのヒンズー教の影響もあり、現世利益はさらに強くなる。
加持祈祷、護摩、真言などによって、病気平癒、国家安泰、雨乞い、厄除けなどが盛んに祈願されるようになる。
日本でも平安時代以降、仏教は国家や社会を守る役割をも担った。
日本仏教は、歴史的な経緯もあるが、特にこの傾向が強い。
在家の人にとって、寺院は、哲学道場というより、地域共同体の中心になった。
葬式、先祖供養、厄除け、安産祈願、商売繁盛――。
現代の寺院で行われていることの多くは、「現世利益」に近い。
多くの人が仏教を信仰していても、「空」や「唯識」を深く理解しているわけではない。
それでも人々は寺に行き、手を合わせる。
これが仏教の宗教的側面なのだろう。
哲学としての仏教は、「存在とは何か」を問い続ける。
宗教としての仏教は、「苦しむ人を支え」続ける。
欲望を超えよと言いながら、病気平癒を祈願する。
無執着を説きながら、商売繁盛を願う。
仏教が純粋哲学だけであったなら、民衆から離れただろう。
現世利益宗教になっていたなら、深い思想としての魅力を持たないだろう。
仏教は、その両方を抱え込んできた。
人間が苦しみながら生きる限り、仏教は哲学であり続け、同時に宗教でもあり続けてきた。
仏教は宗教であり哲学である。
まあ、こんな当たり前のことを今更言っても仕方ないが、、、
僧侶の方はどうされているのだろう、、、
どちらかに偏った方もおられるようだが、思い過ごしだろうか、、、
どこからか声が聞こえる!おいおい、ところでKanayaくん、君はどうなんだね。信仰心あるのかね?
正直、私は偏っている!今の興味は仏教思想に対する知的好奇心だ!でも6年もやっていると、少しずつ変わってきた気もするが、、、先は長い!



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